それからのことはいつも通りで、ただの作業だった。
パーティーが始まっても私のそばにはずっと和幸がいて、挨拶に来る来賓たちに頭を下げて笑顔を振りまくだけで二時間くらいはすぐに経っていた。
たぶん、私と和幸の関係はここにいる人間は内々に勘付いていることだろう。
ときおり「おめでとう」と言われるたびに笑顔が崩れそうになるのを必死で我慢しなければいけなかった。
それでも私は白鷺花凛として、耐え続ける。
笑顔だけが、私が身につける最強の仮面である。
最後に父からの感謝の言葉があり、ようやく終わると胸を撫でおろそうとしたところ、
「では最後に。花凛、和幸君、こっちへ来なさい」
壇上から私たちを呼ぶ父。一瞬で私たちに視線が集まる。拍手まで起こる。
もちろん、父の言葉に従わないわけにはいかない。このための今日のパーティーなのだ。
和幸にエスコートされて、壇上へ上がる。
「大丈夫、大丈夫……」
和幸は小さな声で、そうつぶやいた。この大舞台で緊張しないように婚約者という立場なりに私を勇気づけてくれているのかと思い、ふと彼の顔を見上げる。
「和幸さん……?」
「……大丈夫、……大丈夫」
そうではなかった。和幸は私のことなどまったく見ていなかった。
自分自身の緊張を和らげるための独り言だった。
和幸の目は泳ぎ、手は震え、唇は青く、表情は能面のように色がなかった。私のことなど、まったく見もしないし、気にもしていなかった。
和幸はこの状況を恐れているだけだった。
いくじなし。
私はそう言いそうになったが、ぐっと喉の奥に飲み込んだ。
和幸に覚悟などできていなかったのだ。彼も仮面を被ってこの運命を受け入れることすらできずに、ただ戸惑っていたのだ。
今さら自分を騙すことすらできずに、情けない素振りを見せないで。10歳も年上のくせして。
私は白鷺花凛として生きるためにこの和幸と結婚する覚悟はしていたが、どこかで期待もしていたのかもしれない。同じ境遇を背負わされたこの和幸と一緒になることで救われる未来を。
白鷺家という深い穴からは逃れられなくても、和幸が私のいる奥底まで落ちてきてくれると。穴から脱出できなくても、暗闇で何も見えなくとも、家に翻弄させられた二人でいれば何か希望が掴めるのではないかと。
間違いだった。
この和幸は穴に落ちる覚悟もできていない、いくじなしだった。
杉森和幸という男を演ずることもできない、ただのいくじなし。
「私の一人娘の花凛は今高校二年生なんですが……」
私たちが父に紹介される。
壇上から会場を見渡すと、母が見えた。胸の前で手を合わせていた。
その顔は、私をようやく穴の中に引きずり下ろした恍惚で幸せそうだった。
「和幸君は将来の白鷺グループを背負って……」
ちらっと横目で見た和幸は、歯を食いしばって笑顔がひきつっていた。作り笑いもできない、ただのお坊ちゃん。まだ手が震えている。
「杉森家とはこれまでも、そしてこれからも一致団結し……」
万雷の拍手が起こる。
「おめでとう、花凛、和幸君……」
祝福に殺されそうだった。
これは私への祝福なのか、それとも白鷺家と杉森家への忠誠なのか。
この穴は、もう私を逃してくれない。
私が死ぬまで――。
「花凛さんは僕がお送りします」
「よろしく頼むよ、和幸君」
「お願いね、和幸さん」
パーティーが終わり、出席者の見送りもすでに終わっていた。
私はパーティーの最中も都合のいいように記憶をショートカットして、時間が過ぎるのを待っていた。早くベッドに入りたい。それだけだった。
「行きましょうか、花凛さん」
壇上での緊張もようやく消えた和幸は、私の手を取る。さっきまで震えていたくせに、バレていないとでも思っているのだろうか。
いつの間にか父と母は別々の車で帰路につき、私は和幸の車で送ってもらう段取りになっているらしい。
さすがにタクシーで帰るとは言いだせず、その白い車の助手席に乗り込む。ドレスのスカートがドアに挟まりそうになって、非常に煩わしい。
運転席の和幸が無言のまま、車を発進させる。
私も今日は本当に疲れているし、真田のあの卑屈な笑い声を聞きながら帰るよりかは、和幸の車のほうがリラックスできるかもしれない。
シートに体を預ける。少しくらいなら、気を抜いてもいいだろう。逆に、未来の夫の前で畏まりすぎるのもよくはない。
ハンドルを握る和幸の手はぎこちない。ブレーキの加減が真田の運転に比べると粗っぽい。目をつむっていると信号で止まるたびにヒヤッとする。
「今日はお疲れだったね」
さすがに無言のまま気を遣ったのか、和幸が話しかけてきた。
「ええ。和幸さんも、大変だったでしょう」
こんなことは慣れている私でも疲れ果てているのだから、和幸にとっては相当な心労だったろう。あの緊張の仕方は、情けないものがあった。
果たして白鷺家に婿で入って、やっていけるのだろうか。今から心配だ。
会話はそれだけで終わり、また車内は無言に戻る。
こうやって二人きりで話すのは初めてかもしれない。和幸は多弁なタイプではないと思っていたが、大人にしては頼りがないと感じてしまう。本当に疲れているだけだと思いたい。
だが静寂を埋めるためだけの無駄な会話を続けるくらいなら、黙っているほうがいい。
結婚したら、嫌でも幸せな夫婦を演技し続けなければいけないのだ。今から気を遣いたくもない。
私は目を閉じ、家に着くまで心を落ち着けよううとした。
――それがいけなかった。
「……?」
普段は真田の車で移動することが多いので、私は意外と道には詳しい。
東西南北も直感的に分かるのだが、今走っている道が、自宅に向かっていないことははっきり分かった。
「和幸さん、これ、反対方向じゃありませんか?」
会場のホテルから自宅は、国道をまっすぐ西の方向である。だが今走っている道はどうやら逆方向で、流れる風景にも見覚えはなかった。
何度か白鷺家にも来ている和幸なので道に迷うということはないと思うのだが。
「ええ。ちょっと、寄り道をしようと」
和幸はまっすぐ前を向いたまま答えた。フロントガラスに映る彼の顔は笑っている。
おそらく、この寄り道が何を意味しているのか、さすがに私でも理解できてしまった。無菌培養されてきた私でも、そこまで無知で純粋ではない。
どうしようか? 今すぐUターンするように言うべきか?
白鷺花凛としての答えに逡巡した。
もっと早く気づくべきだった。私が黙っていたということは、了承していたと思われたのかもしれない。気を抜いている場合ではなかった。
実のところ、この和幸の行動は予想外だった。
傍から見れば婚約者同士が二人でドライブするとなれば、まったく不自然ではない。
こんな夜中に行くところなんて、想像もできるはずだ。
結婚前にそういう関係を持っても、なんらおかしくない。
だが私は和幸との関係を悪い意味で受け入れていなかったため、こうなることを意識の外に置いていた。
好き嫌いの感情で考えていなかったからだ。義務、ビジネス、そう考えていた。
いくじなしで覚悟ができていないお坊ちゃんが、無理やり私に手を出そうとするとは思わなかった。いや、だからこそ、こんな性急な行動を起こしてもおかしくない。
これは家同士の決め事であり、男女そのものの関係を甘く見ていた私の油断だった。
私は和幸を婚約者とも男とも見ていなかった。私を縛るために、新たに加えられるレッテルのひとつとしか思っていなかった。
和幸のことなんて、ただのペラペラのステッカーくらいにしか思っていない。
だが今、横にいるのは男なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
黙っていると、車はどんどん人気のない場所へと向かっていく。
町のネオンが遠く、国道から外れて景色に緑が増えてくる。いつの間にか山道に入っていた。対向車もない。もちろん、人もいない。
「帰りましょう。今日は疲れましたから」
なるべく和幸を刺激させないように、提案する。
これから和幸が何を望んでいるのかが分かった上で、これ以上は限界だった
こういうケースはどう振る舞えばいいか分からない。いつものように笑顔を見せておけば、すなわち肯定を意味してしまう。今回ばかりははっきり否定しなければいけない。
まだ準備ができていない。経験もない。
唯一、私の覚悟が欠けていた問題だ。
私は私を騙せていない。
「大丈夫、大丈夫だから」
和幸が猫なで声のようなぬるい声で繰り返した。
さっきのパーティーで父に呼ばれて壇上に上がるときと同じように。
それは私への言葉? それとも、自分自身に言い聞かせているの?
「大丈夫、安心して」
和幸がそっと、助手席で固まっている私の手に触れてきた。悪寒が走る。
何が大丈夫なの?
こんな偽物の関係でも、大丈夫っていうの?
偽物だから――何をしても大丈夫なの?
「いや!」
無意識の行動だった。頭で考えるよりも体が先に動いた。
私は両手でサイドブレーキを握り、一気に引き上げた。
「……ッ!」
後輪がロックされ、アスファルトにゴムが擦り切れる音が車内にも響き渡る。
和幸も突然のことで何が起こったのか分からないまま、ブレーキを踏む。
後輪が左右に一二度振られ、反対車線に飛び出すように車は制止した。目の前には白いガードレール。対向車がいれば正面衝突していた。ちょうど直線だったので、これくらいで済んだともいえる。
「か、花凛さん! 何をするんだ!」
私はまだサイドブレーキをきつく握ったまま、動けない。窓ガラスに一度、頭を打ち付けたようだが痛みはない。
「花凛さん、離して」
私の人差し指、中指と順番に力づくでサイドブレーキからはがしていく和幸。その手には汗が滲んでいる。
「わたし、帰ります」
「大丈夫だから……、大丈夫」
質問の答えになっていない。
和幸は呪詛のようにそう繰り返す。さっき壇上に上がったときに繰り返していたのと同じ口調で。感情はこもっていない。
ついに私の手をはぎ取ってサイドブレーキを下げた。まだ諦めていないようで、すぐさま車をバックさせて道に戻る。
「安心して。僕がいるから大丈夫だ」
和幸の目には白鷺花凛という私は映っていなかった。
彼の目には「女」である私しか見えていないのだ。
「無理です!」
和幸がギアをバックからドライブに入れる瞬間を見計らって、私は助手席側のドアを開けた。
ここから逃げる! もうそれしか考えられなかった。
これには和幸も発進することができず、再びブレーキを踏み込んだ。
私はシートベルトを外し、窮屈なドレスに足を取られながらも外へ飛び出した。周りには明かりもない。車のヘッドライトが前方をこんこんと照らしているだけで、あとは弧を描く白いガードレールが続くだけ。
「花凛! 待てよ!」
逃げるとしたら、今来た道を下っていくしかない。どれだけ距離があるか分からないが、国道まで出ればなんとかなるはずだ。
慣れないヒールでこけそうになりながら、とにかく坂道を暗闇に向かって走る。
「待てって!」
ほんの数歩走っただけで、後ろから左腕を握られる。
「帰ります!」
「歩いて帰れるわけねーだろ! いいから車に乗れよ!」
和幸の口調が、今までとは違っている。
これが素の和幸なのだろう。「男」としての和幸か。
ついに演じることを放棄したのはそれだけ必死だったからなのか、それともすべてを棄てる気になったのか。
いや、きっとそんな勇気はないはずだ。何も考えていないだけだろう。それでは白鷺家ではやっていけない。
こんなポンコツ、白鷺家の跡取りにふさわしくない。
「い、痛い!」
掴まれた左腕が絞られるような痛みが走る。体全体で抵抗するように、その和幸の手を振りほどく。また逃げてもすぐに捕まってしまうだろう。
車が通ってくれれば助けを求めようと思うが、そんな気配はない。
私は立ち止まり、暗闇の中で和幸と対峙する。
「ほら、車に乗れよ。俺がどれだけ我慢したか、分かるか? 結婚するまであと一年以上も待てねえよ」
和幸が手を伸ばしてくる。暗くてその表情までは見えないが、どれだけ醜い顔をしているのかは想像がつく。
それでも私は私を演じる。ここで泣き叫ぼうものなら、この男と同じ。
覚悟でもあり、意地でもあった。
私は後ずさり、背中にガードレールが触れる。
「お前のお父様には許可もらってるんだよ」
私の逃げ場を狭めるように、手を広げて近づいてくる和幸。
「お、お父様がなんて……?」
一瞬、私の仮面が外れそうになった。
なぜ父の話を持ち出すのかが分からない。
ガードレールの向こうを覗き込むと、崖になっていた。途中までコンクリートで舗装されているが、その下は真っ暗闇でどうなっているか知れたものじゃない。いつの間にか、かなり高いところまで来てしまっていることに気づく。
「さっさと子どもを作れってさ。しかも跡取り息子をって。一人娘のことを道具としてしか思っちゃいないぜ、あの父親は」
じりじりと、近づく和幸の口元が、下品に歪んだ。
「そ、そんなこと……」
そんなこと、わざわざ和幸に言われなくても分かっている。
私は白鷺家存続のための道具、跡継ぎを作るための器。それに利用されている和幸。すべては白鷺家のため。
「かわいそうな花凛ちゃんは、俺がきっちり慰めてやるからさ、ほら」
ようやく手が届くところまで来て、和幸の手が私の両腕に伸びてくる。
私はこれ以上、下がれない。背中にガードレールが食い込む。
月明かりに照らされて、ようやく和幸の表情がはっきりと見えた。
その表情はこれまで和幸が作ってきた「杉森和幸」の仮面を完全に脱ぎ去ったものだった。
それはとてもとても醜悪だった。和幸の生の感情が表に出ていた。
ずるい。
私はずっと自分を隠して、「白鷺花凛」の仮面を被り続けているのに。なのに和幸は、一人だけ仮面を脱いでいる。
ーーずるい。
最後まで、演じてよ。私だって本当は泣き叫びたいのに。
でも私は白鷺花凛でなければいけないの。
「緊張しなくていいよ。初めてなんだろ? ぜんぶ俺に任せてくれりゃ、大丈夫だから」
「へ、変態!」
「変態で結構だよ。お前も変態にしてやるよ、お嬢様」
「いやっ!」
両腕を掴んでくる手を、振り払う。
「いてーな、優しくしてやるから」
和幸は楽しんでいるようだった。
「俺は君の味方さ。ほら、大丈夫。大丈夫だから!」
「いやぁぁぁぁ!」
強引に抱きつこうとしてくる和幸に、私は体を逸らす。ガードレールの上に腰がかぶさるように乗りあがる。もう、そこからは一瞬だった。
ふわっと両足が上がり、そのまま後ろへと倒れこむ。もちろん、私の背後には何もない。
頭から真っ逆さまに、ガードレールを越えて、落ちていく。
何度か後頭部がコンクリートに叩きつけられた。揺れる景色、遠のく意識。
ほろりと、涙がこぼれたような気がした。
濡れる瞳で最後に見たのは、逆さまのお月様。
これが私の、最後の記憶――。
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