半年ぶりに迎えたこのハローワークのベッドでの朝は、目覚めがいいものだった。
この半年間、逃げ続けてきた。
魔王軍の手から、モンスターから、勇者から。
そして、自分自身から。
安らげるような夜はなく、希望が芽生える朝はなかった。
だけど今日だけはなぜかぐっすり眠れたのは、ここが俺の家だからだろうか。
まだ温かい布団で寝返りを打つと、隣のベッドには誰もいない。
あの日の朝、シリウスは隣に俺がいないことに気づいてどう思ったのだろうか。まさか俺が家出したとは思いもしなかったかな。あいつ、低血圧で朝が弱いしな。
部屋を出て階段を下りる。
いつもは階段の途中で、キッチンからコーヒーのいい香りが忍び寄ってくるのだが、今日は何も感じない。
一階に下りてキッチンを覗くと、誰もいない。
いつもはキッチンではホイップとカリンが楽しそうに朝食を作っていた。だが今日は、誰もいない。
ハローワークはすっかり変わっていた。
リビングに入ると、テーブルの上に一枚、手紙が置かれていた。
『仕事があるので、先に出ます! 何も挨拶をしないのはこの前のお返しだよ! カリン』
「あいつ……」
どうやら先にアレアレアに戻ったようだった。今日も朝から仕事があるのに、わざわざ来てくれたのか。
昨日の夜、俺たちは裏山の入り口で語り合った。
俺がここを出ていった半年間、どこで何をしていたのか。出会った人たちのこと、出来事、そして妖精の森のことも。
俺たちアイソトープが妖精になれなかったできそこないとか、魔王が弟を生き返らせようとしているとか、そういった生々しい話はさすがに触れることはできなかったが。
カリンも観光ガイドのジョブのことを話してくれた。傑作だったのはシの国の王子がアレアレアの教会を視察に来た時にガイドした話だったが、これはまた別の話だ。カリンも色々大変みたいだけど、楽しそうで何よりだった。
さすがに夜中になると冷えてきて、俺たちは事務所に戻った。すでにシャルムは眠っていたのか事務所は真っ暗だった。
俺とカリンはそれぞれの部屋に戻って、眠りについた。
さよならは言わなかった。
そして、今日もカリンが先に出て行ってしまったけど、寂しくなんてない。
俺はカリンの置き手紙をぺらりとめくる。裏に書かれていたのは……。
『約束、忘れないでね!』
カリンとの約束。
それはまたこのハローワークに帰ってくること。
「大丈夫。帰ってくるよ」
手紙を折りたたみ、カリンの手紙を鞄に入れた。
「ケンタ、準備はいい?」
いつの間にか、シャルムがリビングにいた。
「ああ。いつでも」
俺は振り返り、腕を組んでいるシャルムに返事をする。
「ジェイドはもう外で待ってるわ。時間にまめなモンスターって珍しいわね」
シャルムが呆れたように言う。
確かにジェイドはこういうところはモンスターらしくない。潔癖症っぽいところがあるのは、もしかしたらシャルムに似ているのかもしれない。こんなこと言ったら、きっとシャルムに殴られるだろうけど。
「あ、シャルム。ちょっといいか?」
「何よ?」
カツンカツンとヒールを鳴らして外へ出ようとするシャルムを止める。
「カリンを呼んでくれたんだな。ありがとう」
「あなたが戻ってきたら連絡をしてくれってカリンに頼まれてただけよ」
「あと、ホイップのことはごめん」
「ホイップに関しては、たぶんいつか戻ってくるわよ。あの子はしぶといから」
しぶとい、の意味が何を指しているのかわからないが、シャルムがそう言うのなら信じよう。俺と違って、簡単にあきらめるような妖精じゃないしな。
「ほら、さっさと行くわよ」
「あ、最後に!」
急かしてくるシャルムに、今度こそ最後に言っておかねばならないことがある。
「魔王のところで働いて、何をするかは俺が決めろって言ったよな?」
俺がこれから魔王の執事として働く理由は、勇者やランゲラクが手を出せないようにするのが大きな理由だった。
だがその魔王も、俺の【蘇生】スキルを使って兄貴を生き返らせたいのだ。
「もし俺が魔王の兄貴を生き返らしたら、どうなるんだ? 魔王の言う通り、本当にダジュームは平和になるのか? 争いがなくなるのか?」
今の魔王と、死んでしまったその兄は争いのない世界を願っているらしい。
そのために魔王軍の過激派であるランゲラクをけん制したいのだ。
魔王が平和を願うということ自体が信じられない。俺は騙されているのではないかと、いやそう考えるのが普通だろう。
「それはあなたが魔王に会って、判断すればいいじゃない」
シャルムは当たり前のように言う。
「でも、もしそれで俺が利用されただけだったら?」
「そのときはそのときよ。今さらぐじぐじ言わないの」
「そうだけど……」
「あなたが決めるのよ。魔王のところにいれば、ひとまず命は安全なんだから、そこでじっくり考えなさい。自分がすべきことを」
シャルムはまっすぐ俺を見て、語り掛ける。
「魔王の兄を生き返らせるか、生き返らせないか。あなたが決めるのはその二択だけじゃない。すべての可能性の中から、あなたが決めるの。ダジュームの未来を。それがあなたの仕事よ」
ダジュームの未来が俺にかかっているというシャルムに、俺はゆっくり頷く。
もう今さら逃げるわけにはいかない。
今度は、やるんだ。
「わかった」
「もし最悪の事態が起きてダジュームが終わるんなら一瞬よ。そのときは誰にも恨まれないわよ。もうみんな死んでるんだろうしね」
無茶苦茶恐ろしいことを言うシャルムが事務所の扉を開けた。
すると外にはジェイドと、その肩に座るペリクルがいた。
「遅かったな」
いつも通りの無表情でジェイドが言う。
「支度が遅い男は嫌いよ!」
ペリクルは朝から仏頂面で睨んでくる。
「待たせたな」
俺の門出を祝うかのように空は青く晴れていたのは皮肉なものだ。
「で、どうやって魔王城に行くんだ? また飛んでいくのか? どれくらいかかるんだ?」
案内役のジェイドに尋ねる。
もちろんこのダジュームの地図には魔王城はどこにもない。
ウハネが到達したとされるが、そのときと場所も形も変わっているらしいのだ。
「お前はバカか? 私は今もランゲラク様の下で働いている身だ。お前を魔王様のところに連れていけるわけがないだろうが」
「そりゃそうだけど、じゃあどうするんだよ?」
ジェイドは送ってくれないらしい。確かにランゲラクにだけにはバレてはいけないからな。
「ペリクルも準備しろ」
「分かったわよ。任せといて」
ジェイドに声をかけられたペリクルがなぜか俺のところに飛んでくる。
「なんだよ? どうしたんだ?」
「私が一緒に行ってあげるのよ。あなた一人じゃ心配だからね!」
「え? お前も魔王城に行くのか?」
と、俺の了承など最初から必要なかったみたいで、ペリクルは俺の鞄にもぐりこんできた。
「じゃ、準備はオッケーね? ちゃっちゃとやるわよ」
そこへやって来たのはシャルムだった。
「やるって? 何を?」
「私がワープの魔法であなたを魔王城に送ってあげるのよ。感謝しなさい」
「へ? シャルムが?」
確かワープの魔法って、自分が行ったことのある場所にしか飛べないんじゃなかったっけ?
俺は以前聞いた魔法の知識を頭に思い浮かべていたら、シャルムが俺の顔面に手を押し付けてきた。
「じゃあ、がんばってきなさい。あなたの働きが悪いと、ハローワーク所長の私に迷惑がかかるんだからね?」
「ちょ、待って? いきなり魔王城へワープっすか?」
俺の顔を掴むシャルムの指先に、ガッと力がこめられる。
「ハローワーク卒業おめでとう。じゃあね」
シャルムのその言葉で、俺の目の前に光が現れた。
次の瞬間には、俺はもう意識がふんわりとなくなっていく。妖精の森から出たときと同じような感覚で、シャクティもワープの魔法を使ったのか。
意識は次第にあやふやになっていく。
きっと次目覚めたときには、もう魔王城。
――必ず帰ってくる。
薄れゆく意識の中で、そう自分に言い聞かせた。
第八章「ケンタ、帰る」 完
第九章「魔王軍のお仕事!」お楽しみに。
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