学校が終わり、放課後になる。
今日は家の事情で部活は休むと顧問には伝えてある。理由は告げずとも、顧問はふたつ返事で了解してくれる。
先生たちも私には気を遣っているのが見え見えで、居心地が悪い。
すべては私が白鷺花凛、白鷺家の一人娘だから。
「また明日」とクラスから出るが、家に帰るのが億劫で、廊下を歩くスピードがゆっくりになってしまう。何か用事はないかと無理やり学校にいる理由を探そうとするが、何もない。
本当の意味での友達なんて、この学校には一人もいない。
私はどこにいても白鷺花凛という仮面をつけており、それはどうやら他人から見ると高い壁のように感じられているのだろう。
白鷺家のお嬢様。大金持ちの娘。完璧な女。
それが私につけられたレッテルであり、他人を遠ざける呪いのようなものだ。
欠点のひとつでもあれば、少しの隙でも見せれば、あるいは近寄りやすくなったかもしれない。でもそんなことはできない。
私の人生は友達を作ることよりも白鷺花凛であることのほうが優先される。
家の中だけじゃなく学校でさえ、この仮面は外せなくなっていた。だんだんと本当の私を忘れていきそう。そんな恐怖感でいっぱいだった。
仕方なく学校を出ると、校門の横には車がつけられていた。
その横に立っている運転手の真田が私の姿を認めると、小さく頭を下げた。白い手袋で、急いで後部座席のドアを開けてくれる。私は黙って乗り込む。
周りの生徒は見てはいけないものを見るように、横目で車の横を通り過ぎていく。まるで映画のワンシーンでも見るように。
いや、むしろコントかもしれない。決して笑えない、コント。
私はシートに座り、すっと目を閉じる。
もちろんこんな待遇に優越感などない。こんなの見世物だ。毎日毎日、私は展示されているのだ。
「白鷺花凛」と書かれた檻の中に。
「参ります」
静かに、車は発進した。
疲れていても、笑顔を絶やすことはできない。
この真田にだってそうだ。人によって対応を変えると、どこかでほころびが出る可能性がある。
誰かにだけ気を許すという例外を作ってしまうと、間違えてしまうことがある。ならばすべての人に愛想よく笑顔を振りまいておけばいい。
「本日はパーティーらしいですね。ご自宅でお着替えになられてから、会場にお送りするように承っております。へへ」
真田は「へへ」と言葉の区切りに軽く笑う癖がある。笑うというより、鼻から息を出すという感じか。
私はいつもそれが癇に障り、舌打ちのひとつでも打ちたくなる。
真田にとっては愛想笑いの類のものだろうが、私にとっては不快でしかなかった。私の機嫌取りであり、おためごかしであることは分かっていた。
自分をへりくだっているのが伝わるのだ。雇い主である白鷺家の娘である私に対する、恐怖とでも言えばいいのだろうか。父よりも年上のこの真田という男が、高校生の私を恐れているのだ。
もし私が父に運転手を変えてほしいと直訴すれば、明日には真田はクビになっているはずだ。冗談ではなく、それは真田も自分で分かっている。それゆえのこの対応なのだ。
「そうですか」
私は目をつむったまま、返事をする。口元だけは口角を上げ、決して不機嫌な雰囲気を出さないようにしている。
誰かの前で居眠りなどできるはずがない。一瞬でも仮面を外すことはできないのだから。
「……へへ」
真田が何度か喋りかけてきたようだが、私は薄く頷くだけで自宅に到着したころには少し雨が降り出した。
自分の部屋に戻ると、クローゼットには例の赤いドレスがかけられていた。
飾り気のない私の部屋に、毒々しいまでの赤がくつろぎの邪魔をする。
なるべく視界に入らないように窓のほうを向いてベッドに腰掛けるが、窓のガラスに反射する赤が、私を逃がさない。
「もう!」
珍しく苛立ちを言葉にした。すぐに誰にも聞かれていないかと部屋を見渡す。
両頬を手のひらで覆うと、少し温かくなっている。こんなことで動揺してどうするんだ。
ーーいつも通り、白鷺花凛を演じろ。仮面をつけろ。自分を騙せ。
呪いの言葉を繰り返し、両頬をつねるように上に引っ張る。窓ガラスに映った私が、私を笑っている。
一気にスイッチが入って、制服を脱ぎ、その赤いドレスに着替えた。
予想通り、まったく似合わない。私のような貧相な胸の女が着ると、本当の意味での道化だ。
子どもがシンデレラの衣装を着てお遊戯をしているみたいで、洒落にもなっていない。
父からの誕生日プレゼントがこのドレスだったときは卒倒しそうになった。父は私が喜ぶと思ってこんなものを送ってきたわけではない。
結局はこれを着た私を利用するためだ。白鷺家の道具として。
だから私も道具として生きなければいけない。
鏡に向かって、いつもの笑顔を作った。顔の筋肉が、もうその状態を覚えてしまっている。
私はもう、本当の笑顔を忘れてしまったのかもしれない。
これがこの世界での私の生き方。
今日のパーティーで最愛の父から送られたこの赤いドレスを着て、笑顔を振りまく白鷺家の一人娘として、私は生きる。
結局、私も父の顔をうかがって生きている。
私が泣けるのはベッドの中だけ。今はちゃんと白鷺花凛を演じるのみ。
「真田と同じね」
最後につぶやいた皮肉は、自分の心を想像以上に締め付けた。
ドレスを着てリビングに下りると、待ち構えていたように母が「素敵!」と駆け寄ってきた。
すでに母もドレスに着替えており、黒を基調とした控えめな装いが私だけを目立たそうとしている狙いが見えた。
もちろん私も「お母様も素敵よ」と言うのを忘れはしない。
「これをつけて。私がお父様にもらった宝物」
母の手にあったのは、ティアラだった。有無を言わさず私の頭に乗せてきた。
「素敵。似合うわ、花凛」
手を合わせて絶賛する母に、お手伝いの桜子が鏡を持ってくる。確認するのもイヤだった。鏡の中には貧相なお姫様がいた。
でも銀色の格子のようなデザインのティアラは、まるで檻のように見えた。
今の私にピッタリだ。無理やりそう解釈して、私は母にお礼を言って笑いかけた。
「お母様、ありがとう!」
私と母は真田の車で、パーティー会場へと向かった。
車内で今日のパーティーの趣旨を母から聞かされた。たぶんどこかで聞いていたのだろうが、私は無意識のうちに情報をシャットアウトしていたのだろう。
どうやら今日のパーティーは株主を招いての白鷺グループの半期に一度の業績発表を兼ねたものらしい。私も何度か出席したことがあるが、今日はさらに私と和幸のお披露目という目的があるのだ。
だからこそのこのティアラなのか。私は母の思惑と気合の入りようを得心した。
私は高校二年生、卒業したら和幸との結婚が待っている。あと一年ちょっとしかないので、ゆっくり構えていられる時期ではないのだろう。
すでに私の意志を置き去りにして、裏ではいろいろと動いているようだ。もちろん式場なども、父が決めてしまっている。この家同士の政略結婚において、花嫁である私の希望などまったく介されない。理想の花嫁を空想することすら、許されない。
会場に着くと、すでに多くの来賓が待ち構えていた。
車から降りようとすると、駆け寄ってくる一人の男性。
「花凛さん、お待ちしていました」
タキシードに身を包み、目を細めるこの男性こそ、杉森和幸。私の婚約者である。
年が10も違うので、普段は学校で接している同世代の男子に比べて明らかに大人である。
だけど私には大人の男性の魅力なんて分かるはずもなく、和幸の体から香水とタバコの混ざった匂いがするだけで吐き気がしそうだった。
「お待たせしました」
エスコートするように差し出してくる和幸の右手を、指先だけでかするように触れ、ヒールで躓かないように車を降りる。
たぶん、世間的にはイケメンの類に入るのだろう。和幸も杉森家の次男として、次期白鷺家の跡取りとして、多くのものを作っているに違いない。イケメンも作られた仮面のひとつだ。
仮面を被った者同士が結婚して、どこに幸せなんかが訪れるというのだろう。
これは犠牲者同士が逃げられないように鎖に繋がれただけ。不自由の連鎖だ。
「綺麗なティアラですね。とてもお似合いです」
会場に入る道すがら、和幸が私の頭のティアラに気づき褒める。こういうそつのない行為は大人の余裕なのかもしれない。学校の男子では、逆に照れて言えないだろう。
「母から譲り受けたものです」
「お母様から。素敵です、花凛さん」
笑ったときに目じりに皺がいく和幸を見て、私も笑い返す。ふわと、またタバコの香りがした。
そしてパーティーは始まった。
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