ハデスがダジュームでミラと出会って、およそ一年ほどが経っていた。
ミラは捨て子で、赤ん坊の時にこの港町の宿屋の前に捨てられていたそうだ。宿屋の主人に拾われ、育てられた。その恩義を返すために、ここで働いているというのだ。
「私はお父さんもお母さんのことも知らないの。この町を出たこともない。ここが私のすべてなの。これからもずっと」
いつかそう寂しそうにつぶやくミラに、ハデスはどう返していいかわからなかった。
他人の悩みに耳を傾けることなど、これまで一度もなかったからだ。
だがミラの悩みは、自分にも当てはまることだった。かつてはハデスも誰にも言えない悩みとして抱えていたことでもる。
ハデスも生まれたときから次期魔王という未来が定められていた。
モンスターと人間の違いはあれど、考えることは同じであるとミラに共感を抱くようになっていた。
「それは私も同じだ」
「ハデスはそんなことないじゃない。自由に生きてる」
「いや。私の魂は生まれたときから束縛されている」
「なにそれ? 哲学?」
ミラは真面目なハデスをからかうように、からからと笑った。
この二人でいる時間は、ハデスに魔王という身分を忘れさせてくれた。まるで自分が人間であるかのような錯覚さえも抱かせ、それはモンスターとしての旧態依然とした考え方を柔軟にさせてくれた。
モンスターと人間も、こうやって分かり合うことができるのだ。
かつて父が進めたダジューム侵略はやはり間違いであったと、ハデスは確信を深めていた。
ハデスがダジュームとの協和を目指したのも、このミラとの出会いが大きな契機になったことは疑いのない事実である。
話せば分かる、というのは幻想ではなく現実だった。
「空を飛ぶのって難しいね。全然飛べないや」
ミラは遥か空の彼方を見上げる。
一向にミラは【飛行】のスキルを習得できないでいた。スキルは才能によることが大きいのは既知の事実だが、ミラにはその才能がなかった。
ハデスはもちろん気づいていたし、そのことを黙っていたのは、この二人の飛行練習が終わってしまうのを恐れていたのからかもしれない。
「努力すれば飛べるようになる」
幾千というモンスターを統一する魔王の口から努力という言葉が出たことは諧謔であろうが、このときのハデスはいたって真面目であった。
人間を励ます姿なんて決して部下のモンスターには見せられない。
「私も空が飛べるようになったら、自由になれるかな?」
ミラはぽつりとつぶやいた。
それは己のこれまでの人生を振り返り、これからの未来に希望を託しているようだった。
ハデスは同じような悩みを持っていながらも、彼は自らその鎖を解き放ってきた。【空間移動】のスキルによって裏の世界を飛び出し今このダジュームにいるのもそうだ。
ダジュームでは今まで見たことのないものを見てきた。
赤く咲く花、四季のある風景、透き通った風、争いのない世界――。
ミラが鎖につながれたことを悔やんでいるのなら、新しい景色を見せてあげたい。
それがミラにとって未来につながるのならば。
ハデスにはそれができた、ミラの鎖を解放することが。
「もし本当の私のことを受け入れてくれるなら、私と一緒に行かないか?」
ハデスはゆっくり、ミラの顔を見る。
このときの彼の表情は、生まれて何百年経って初めて不安という感情が表に出た瞬間だった。
魔王の息子として生まれ、今は魔王として、願いが叶わないことなどこれまで一度もなかった。
だが、他人の願いを叶えようとする意志が、自らの願いの行方として跳ね返ってくる。
ハデスは息を呑む。魔王らしからぬ行動である。こんなところ、部下のモンスターには見せられようか。
「私はあなたが誰であっても、ハデスはハデスって知ってるから」
ミラは優しく微笑み、ハデスの手をぎゅっと握り返す。
「私をどこかに連れていって。そこが世界の果てでも、あなたがいれば後悔はないわ」
ハデスは飛べないミラを左手に抱え、そのまま高く飛び上がった。
ミラは眼下に、これまで育ってきた港町を見る。
「どうだ、空を飛ぶというのは?」
「私、あんなに小さな町に縛られていたのね」
「必ず、お前を自由にしてやる。これから、ずっとだ」
ハデスはそうしてミラを裏の世界の魔王城に連れ帰った。
自分がモンスターであり、裏の世界を統一した魔王であることも打ち明けた。
ミラはそれすらもすべて受け入れ、ハデスと結婚をした。
その後は前述したとおりである。
シャルムが生まれ、妻の故郷であるダジュームとの共存を目指すハデスは、勇者ウハネとの休戦の会談に臨むのであった。
「お母さんはどこで生まれたの?」
「お母さんはね、もっと遠くの国よ。ずっと遠くて、ずっと小さい街」
ラの国の首都の上空で、娘の質問に答えるミラ。
「いつか私も行きたいな。連れってってね、お母さんの故郷に!」
シャルムはハデスとミラの顔を見渡して、無邪気にお願いをした。
「そうね。この会談が終わったら、行きましょうか」
「ああ。そうしよう」
「やったー!」
ハデスももともとそのつもりではいた。
ミラはあれ以来、あの港町には戻っていない。かつてはあの町に縛られて、自由を求めて飛び出したミラではあるが、故郷は故郷なのだ。
「魔王様、そろそろ……」
幹部モンスターのギャスが、口をはさんでくる。
「わかっている」
家族の会話を終え、妻と娘と約束を交わしたハデスはゆっくりと、首都へと向けておりていく。
勇者と休戦を結べば、いつだってミラもこのダジュームに戻ってくることができるだろう。シャルムのためにもダジュームで暮らす経験は必要かもしれないな。
ハデスが思い浮かべるのは、家族の未来。
すべてはそのために生きてきたのだ。
だが、その未来が訪れることはなかった。
ミラが故郷のミの国を訪れることは、二度となかった。もう、二度と――。
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