【1】
まず、夜の「コンビニ」で待つ。
待ち時間中、「スマホ」起動。現地メディアから話題収集。
商品を探すふりをしてうろうろしつつ、入口には常に気を配る。
“喪主”が入店してくる。調査通りなら、必ず。いつかは。
ちょっと迷うふりをして、声をかける。偶然の再会を装い、驚く。
そして、速やかに挨拶。
「こんばんは」
ここで、“彼女”が事情を聞いてくる(予定)。
(せっかく『日本語を覚えた』のだから)
(しばらく日本で『社会勉強』してこいと、『父』に言われまして)
『|それっぽいでっちあげ《カバーストーリー》』で答える。そう、すらすらと。今回も。
そして、そのまましばらく世間話(話題は収集済み)。
場が温まってきたら、そこですかさず、自然に、切り出す。
(観光に行きたいのですが、いい場所があったら、教えてください)
あとは流れで押し切る。どこかに連れていってあげよう、といった話に持ち込めれば万々歳だ。
最後には、絶対に再会の約束を取り付ける。
それが済んだら別れの挨拶。
そして、自然に|退《・》|店《・》。
全ては、完璧な「計画」に導かれる――――はずだった。
【2】
夜のコンビニ、店内。
入口近くの雑貨コーナー付近。靴下やらマスクやらが棚に並んでいる。
金髪の乙女は、ガラス越しに店外を注意深く観察している。片手にはスマホを持つ。
彼女は、塩垣一華との再接触を狙っている。
服装は相変わらず黒いスーツだが、内側に着込んでいるのは白のカットソーである。今回は葬式ではない。喪服は不要だ。
手のひらは汗ばみ、スマホのフレームを掴む細い指はこわばっている。
画面に映るのは、『週刊ホース・ウォッチドッグ』の無料公開記事。これは、競馬情報誌である。期待の競走馬『スズカニルヴァーナ』の輝かしい戦歴と、その分析が特集内容だ。
しかし、そんなこと今はどうでもいい。
ガラス越しに見える、店外の|軒先《のきさき》。
店の前に立つ、“奇妙な髪形の男”をガラス越しに見る。反射が邪魔して、見づらい。
男の頭部からは無数の髪の束が泉の如く湧きだして、襟足まで流れ落ちている。
見慣れない髪型だ。ずっと見ていると、蠱惑的にすら思えてくる。この髪型が表現しているのはオオカミのような敵意か、あるいは友愛か。
男は、先ほど「コンビニ」で購入した商品のパッケージを袋から取り出す。
袋を懐にしまうと、乱暴にパッケージを開封し始めた。
彼は、ずっとあの商品を探し回っていた。
店員に場所を聞いて、やっとのことで商品を見つけると、すぐさま会計し、そそくさと退店した。
そして今、店外にいる。
(一体、何をしているの?)
一部始終を見ていた金髪の乙女。怪しまれぬよう、適度に商品棚やスマホの画面に目を落とす。
情報収集も続行しなければならない――――これは、柔らかそうな毛並みの競争馬だ。競馬情報誌の写真をしげしげと観察する。
そして、また店外を見やる。
格闘すること十数秒。奇妙な髪形の男は、やっと商品の中身――――「小箱とおぼしき物体」と、「ケーブルらしきもの」を取り出したようだ。
男は、空のパッケージを持ったまま、懐に手を突っ込む。手繰《たぐ》る。そして、何かを探り当て、腕を引き抜く。
(まさか――暗器!?)
店内から覗き見ている金髪の乙女は、息を呑む。
「スマホ」の画面――馬はもういい!
タッチ・スクリーンを何度か|撫《な》でると、他の雑誌の記事が〈第6世代回線〉を通じ、運ばれてくる。
ロードしたところで、再び視線を店外へ。
男が懐から引き抜いたその手には――――――――スマホが握られている。
画面に明かりは灯っていない。暗いままだ。
男は、店内から漏れる明かりを頼りに、付属していた「ケーブルらしきもの」の一端をスマホに突っ込む。もう一端は、「小箱とおぼしき物体」へ。
(……接続した?)
おののく、金髪の乙女。彼は一体何をしている? あれは、|爆《・》|弾《・》か?
それとも―――――
金髪乙女が握るスマホの画面には、『月刊カルト・マリアージュ』の評論ページが映し出されている。
5月号の特集作品は……オリジナル・アニメシリーズ、『ふたりはマスキュラ』。
毎週日曜・朝8時30分放送。
監督は|山岸《やまぎし》|将《まさる》。シリーズ構成及び脚本は|斐川《ひかわ》ジョージ。2人のヒロインを演じるメインキャストは、|烏間《からすま》|八咫子《やたこ》と|鳥飼《とりがい》茜《あかね》。
このアニメは、人気だ。
それは疑いようがない。
メイン・ターゲットである女児・男児の圧倒的支持は言うに及ばず。「ギリシャ美学・哲学、そしてジェンダー」を裏のテーマに据えながらも、大衆的かつ牧歌的な作風を堅持。その重厚で温かい救済の物語は、幅広い視聴者層の情緒に訴えかけ、やがては国民的長寿人気番組に――――
いや、そんなの今は知ったこっちゃない!
『アニメ評論誌』の大げさな|予《・》|言《・》から目を離し、金髪乙女は店外を見張る。気を取られすぎた。
店の軒先に立ち、スマホと小箱を接続した、相変わらず奇妙な髪形の男。
何か、騒ぎを起こす様子はない
(じゃあ、やっぱり……ただ、「スマホ」の充|填《・》をしているだけ?)
それでもまだ、警戒は解けない。問題はこの男の髪型や買い物ではない。
|装《・》|い《・》だ。
上半身は、“黒いローブ状の現地装束"。
肩にかかったベルトで、“腹部を覆う黄土色の布”を吊っている。
足元はよく見えない。恐らくは、“白い幅広のズボン”。
(これは、報告にあった……警戒対象)
金髪乙女は監視する。
穴が開くほど監視する。
未だ監視に気付かぬ男は、スマホの画面を灯火する。
男は画面を見つめ――――
そして、突如駆け出した。
【3】
『|来《・》|年《・》のことを言うと、鬼が笑う』
昔からあることわざだ。
未来のことなど、誰にも分からない。
あれこれと未来を思い描き、いたずらに口にしても、何も始まらない。
ただただ、無意味で、滑稽なだけだ。
それこそ、地獄の鬼もせせら笑うほどに…………
ああ、しかし、この時代。|来《・》|年《・》の話をせずにいられようか?
|来《・》|年《・》の話と言っても、語るのは自身や隣人の将来ばかりではない。
〈量子回線〉が大陸間を繋ぎ、
〈無人探査船〉は外宇宙に生命の痕跡を発見し、
〈機械の体〉で全身麻痺の富豪が歩き出し、
〈改良昆虫〉が食料危機を解決に向かわせ、
〈完全自律の歌姫〉に、人々は熱狂する。
スマートフォンは、毎日、毎日、人類の進歩と調和をせっせと報告する。
|来《・》|年《・》は、一体どんなニュースで魅せてくれるのか?
|来《・》|年《・》は、一体どこまで科学が進歩を遂げるのか?
|来《・》|年《・》は、一体どの問題を解決してくれるのか?
|来《・》|年《・》は、一体、何が起きるのか?
|来《・》|年《・》は……
|来《・》|年《・》は……
人々が口にするのは、|来《・》|年《・》の話。
【4】
「来年は……」
今、塩垣一華も、来年の話をしている。
「来年は…………生活費がもつか、ちょっと心配です」
「ははは。そうかそうか。|五月《さつき》の今から、明くる年の食い|扶持《ぶち》の心配か!」
隣に腰掛けた鬼は、来年の話に笑う。
鬼がケタケタと笑うのに合わせ、額から生えた角も揺れる。これは、|自《・》|然《・》|に《・》|生《・》|え《・》|て《・》|き《・》|た《・》|も《・》|の《・》ではない。
「用心深くて、結構なことじゃあないか」
「遺産の整理をしてるんですよ。祖父は口座をいくつか持ってたみたいなんですけど、電子通帳を確認してたら、残高が思ってたより残り少なくて……」
ベンチに座る鬼は、身を乗り出す。
長い髪が、一華の右手に垂れる。あまりに|滑《・》|ら《・》|か《・》|す《・》|ぎ《・》|る《・》感触。薄紅色の、繊維。
鬼との談笑は続く。
「『よく見たら、このままじゃ一日5円しか使えん……!』 とか?」
「いやー、まだ分からないんですよ。全部調べたわけじゃないので……」
「それは、油断できんなぁ」
「ただ、せめて大学を出られるぐらいには、貯金が残ってると思います」
「ほう?」
「ですね。祖父は、用心深くて、多少いい加減でも無計画な人ではなかったので……きちんと貯えてると、信じてますよ」
「なるほどなるほど、一華の|心《・》|配《・》|性《・》はじいさん譲り、というわけか……」
「は、はい、まあ、きっと」
こうは言ったが、万一に備えてバイト増やさないとマズいかなあ……と、一華はスケジュールを考え直す。
考えがてら、隣の鬼の顔色を窺う。
|彼《・》|女《・》は、何やら神妙な顔つきで、芝生の方を見つめている。一体どうしたのか。さっきまで、へらへらとお金の話をしていたというのに。
今回ばかりは、相手の機嫌を損ねると、本当にヤバい……。
雑談の中で失言が無かったか、不安に駆られた。
鬼はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「なあ、一華よ」
「は、はい」
「お前の“じいさん”は、どういう人だった?」
「は……」
「孫の目で見た、素朴な印象が聞きたい」
先ほどまでの一寸古風で砕けた口調は、そのまま。
しかし、表情は固い。照明に照らされた、蒼白の顔。
一華は、またも混乱した。
最初の混乱は、先刻、雑木林の中から話しかけられた時。そして、林の中にこの|鬼《・》が見えた時。
もう正気を失う寸前だった。「ドレッドロックスの男」が去り、公園内に誰もいないことを確認して、すっかり油断していた時の、|怪《・》|現《・》|象《・》だったのだから。
おののいている間にも、おぼろなシルエットの鬼は木々の間をゆらゆらとぬうように、近寄ってきた。
逃げ出そうとベンチから腰を浮かしたが、失敗。
『怖がらず、|一寸《ちょっと》話そう。人の子よ……なあ?』
八重歯を見せつけ、笑う鬼。
背後の雑木林から出てきたこの……|女《・》|の《・》|鬼《・》は、いつの間にか一華の隣に移動していた。気付けば肩に手を回され、力任せにベンチにへと押し戻される。体格は同じぐらいだろうに、なんだこの筋力は。
『本当に、一寸《ちょっと》、一寸《ちょっと》でいいから! な?』
引き留める鬼。逃げられないと悟って震える一華。これは、|く《・》|び《・》|り《・》|殺《・》|さ《・》|れ《・》|る《・》!
不安をよそに、鬼は語りだす――――
『うー、その。今日の昼間は、五月晴れだったなあ?』
『…………』
一華は、身じろぎ一つしなかった。
『これは見事な見事な日本晴れ……外出てた?』
『…………』
一華は、無言で首を横に振った。
『家で、何してたの?』
鬼の目で覗き込まれた。深い深い、奈落のような瞳。
口で返事をしないと、殺される気がした。
『あの、その、香典の整理を…………』
『あっ、そっか…………』
『い、いえ……』
『……』
『……』
沈黙。
『………………えーと、そうだ。汝、名は何という?』
『え、えーと。塩垣、一華です』
『そうか、一華、か。さっきは悪いこと聞いてしまったな。すまぬ』
『っ……あ、い、いいんです、いいんです。ほんと、大丈夫なんで』
『いやいや、少々無礼が過ぎた』
『そんなそんな……』
――――もしやこの鬼、意外と優しいのでは?
そう気を許したのが切っ掛け。
『ところで、|一《・》|華《・》よ。生業は、あるよな? 日頃は何を?』
『大が……えっと……大学生です』
『大学? ……ああ、そうか、|門弟《もんてい》か! この近くで?』
『あ……はい! バスで――――』
大学の話に始まり、近所の人の話を経て、葬儀の話……
一華の語るまばらな内容に、鬼は時に相槌を打ち、時に質問を返し、時に驚き、時に|慰《なぐさ》める。
不思議なもので、話題が尽きない。
聞き上手な鬼に、あれやこれやと打ち明けてしまう一華。静まり帰った公園に、二人分の声が響きだした。
いずれ「変な男」が戻ってくることも忘れ、思わず話し込んでしまった。
祖父を喪い、葬儀で気苦労し、少なからず沈んでいた一華。
大学は欠席していたので、学友と話す機会もない。
心に溜まったストレスの|淀《よど》みは、はけ口が見当たらない。
そんな時、通りかかった夜の公園。日常に潜んでいた、恐怖体験。
突然の誘い。夢とも現実ともつかぬ、しばしの談笑。
一華のナーバスな精神は、わずかだが、確実に救われた。
時間にして、10分そこそこの、この会話に。
来年の心配を笑い飛ばす、この鬼に。
なんか、違和感のある鬼だけど――――おとぎ話のイメージと比較しても、かなり――――これは、なんだろう?
身にまとう装束や、肌。
これはどこか……
ともかく、今の今まで、和やかな談笑を楽しんでいた一華。
そんな彼女は今、突然のシリアス・ムードに、混乱していた。
「その、“祖父”の事は……一言で言うと、どういう人だった?」
【5】
いざ聞かれる答えるのが難しい、鬼の問い。
一華はよく考えて、しかし率直に答えた。
「まともな、人」
「|ま《・》|と《・》|も《・》?」
聞き返す鬼。
「その、祖父は、|ま《・》|と《・》|も《・》|な《・》|人《・》、という印象です……」
一華は素直に、祖父の印象を語る。
「|ま《・》|と《・》|も《・》|な《・》|人《・》」――――
6歳の頃から一人の寝食を共にし、多くのことを教わり、育てられた。
塩垣桃太の、孫娘。彼女の目から見た祖父は、どのような人物か?
「優しい人」、は違う。
しかし、「厳しい人」、も違う。
「悪い人」、は絶対違う。
しかし、「正しい人」、も何か違う。
誰にでもにこやかに挨拶し、それでいて、危険な人やものからはそれとなく家族を遠ざける。
一華が嘘をついて学校をサボろうとすれば怒り、しかし、正直に行きたくないと言えば、逆にズル休みに付き合ってくれた日もあった。
衣食住で身の丈に余る贅沢は許さなかったが、時々おもちゃをねだると、なんだかんだ言いつつ買ってくれた覚えがある。
優しすぎず、厳しすぎず。
正しすぎず、悪すぎず。
どこにでもいそうな、しかし理想的な――|ま《・》|と《・》|も《・》|な《・》、人間。
孫娘の目から見た印象は、それ以上でも以下でもない。
「そうか」
何かに納得した様子の鬼。
隣に座る一華も、それ以上何も言わない。雑多に並べたてたエピソードの羅列に、相手は満足してくれたのだろうか。
しばしの沈黙。どこからか猫の鳴き声が聞こえた。
先に言葉を発したのは、鬼。
「じいさんに可愛がられていたと見える」
「そ、そうですか……」
一華は照れる。
「なら、|お《・》|れ《・》もこれを言うのは気が引けるな……」
「え?」
鬼はしばらく口をつぐんでから、小さな声で、もごもごと話し始める。
「あの、じいさんが、じ……」
先ほどまでとは打って変わった、歯切れの悪い言葉。
「はい?」
聞き返す一華。
鬼は、言葉を絞り出す。
「一華よ、じいさんが|人《・》|殺《・》|し《・》|で《・》|地《・》|獄《・》|行《・》|き《・》だと聞いたら、どうする?」
「え――――」
口を開けたまま固まる一華。|俯《うつむく》く女の鬼。
公園は再び静まり返り、夜風が雑木を揺らす音が聞こえてくる。
いつのまにかベンチの下に潜り込んでいた猫は、あくびをしている。
公園前の歩道は、人の姿がまれになってきた。
ぼーん……
どこからか聞こえた、鐘の音
折り重なった、屋根の影。
その向こうに――――突如、青白い閃光が湧きあがった。
「なっ……」
「騒ぎか?」
ぼーん……
ぼーん……
ぼーん……
鐘を鳴らすような音が、続く。
これは、近くの|鎖間院《くさりまいん》の鐘か? 違う。
鐘の音が呼び水となり、近隣住民の喧騒や悲鳴まで聞こえてくる。
そういえば、「ドレッドロックスの男」は? コンビニに行って、まだ戻ってこないのか? 一体どこで何をしているのだろう。まさか髪型のセットか?
「……読めた」
一華の疑問をよそに、鬼はすっくとベンチから立ち上がった。
(そういえば、名乗ったのは私だけだったな)
さっきまでずっと一華と話していた、この『鬼』――――
肌にぴったりと張り付いたような衣服は、プラスチックじみた|艶《つや》がある。
鬼の横顔や露出した手足の皮膚には、ところどころに回路基板を思わせるラインが透けて見える。
一本角は、生えているのではない。額のソケットに|装《・》|着《・》|さ《・》|れ《・》|て《・》|い《・》|る《・》。金属質な刃物のようだ。
「一華、行くぞ。これは説明が省けそうだ」
鬼にせっつかれ、事情が呑み込めないままに、立ち上がる一華。
(……なんというか、何度見ても……)
――――何度見ても、|ロ《・》|ボ《・》|ッ《・》|ト《・》みたいな見た目の鬼だ。
【6】
それは、一華と鬼が閃光を目撃し公園を出る、少し前のことだった。
金髪の乙女は追跡した。
奇妙な髪形の男は、逃走した。
やがて追走される男は乙女の気配に気づき、|得物《じゅず》を抜いた。
乙女もそれに応ずるように、|得物《スコップ》を抜いた。
コンビニを飛び出し、いつの間にそうなってしまったのか。
二人は閑散とした夜道に足を止め、追跡劇は一旦の終着点にたどり着いていた。
「ただちに投降しなさい!」
何度目かの警告。乙女は、右手に構えた〈スコップ〉の柄を固く握る。
エッチングに飾られた刃は灼熱化し、揺らぐプラズマ光に縁取られている。その光は夜闇の中で見る見るうちに噴き上がって、まるで輝く長剣のよう。
「……懲りずに|再度《・・》襲撃してくるとは。“ダキニの使い”め!」
奇妙な髪形の男は、数珠を片手に罵倒する。
罵倒しながら消えていく。
ひらひらなびく装束の裾まですっぽりと、男は、空中に開いた|裂け目《・・・》の中に消えていく……
「……『再度』?」
吐き捨てられた金髪の乙女は、見上げたまま、怪訝な顔で呟いた。
ぼーん……
ぼーん……
ぼーん……
男が消えた夜闇の虚空からは、もう男の声など届かない。
その代わりと言わんばかりに、臓腑を揺するような、不可解な鐘の音が響いてくる。
それを聞き届けた金髪の乙女は、揺るがぬ手つきで〈スコップ〉の柄を握り直すと、表面にあるタッチパネルのようなものを手早く操作する。
すると、男が消えていったのと同様の裂け目が、金髪の乙女の背後にも現れた。
「警告に従わぬのなら……」
金髪の乙女、その背後に開いた、輝く裂け目。
中には、隠されていた空間が現出する。
「わたしも愛馬を|喚《よ》びましょう」
まるでハッチを開くように、裂け目は中空に広がる。
裂け目、すなわち何かの空間の入り口が虚空に広がるにつれ、より鮮明に|シート《・・・》を、|レバー《・・・》を、照らしだす。その周辺には併せて|モニター《・・・》が現出する。
何もないかのように見えた夜闇には確かに、|コックピット《・・・・・・》が覗いていた。
金髪の乙女は、小柄な体をそこに滑り込ませ、変な頭の男と同様に消えていく。
「霊場を荒らすこと、どうかお許しを……」
夜の間車市街に、二つの異形が浮かび上がる。
「すべては――“|人民民主社会主義《じんみんみんしゅしゃかいしゅぎ》ノルン党"のために!」
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