来る日も来る日も蟋蟀は悲與を描き続けた。その横顔を、立ち姿を、如何にその凄まじきものを写そうかと悩みつつ、ただ筆を走らせた。だが、如何な蟋蟀の腕を以てしても、悲與の醜さを儘に紙に写すこと叶わなかった。絵具は底が見え始め、紙も尽きてゆくばかり。それすらもう幾日も保つまいと思われた。
悲與は多くを語らなかった。語るべきことは最早有らぬかのような素振りで、蟋蟀にその姿を写される儘になっていた。蟋蟀も黙して語らず、悲與を煩わせぬよう努めて心掛けた。
更に幾日かが過ぎ、遂にその刻は来た。手持ちの紙は使い切り、それでも猶描き足りぬ。蟋蟀は悲與に打ち明けた。町へと戻らねばならぬと。
「蟋蟀様も、わたくしに飽かれたのでございますね」
「そうではござらぬ。某は未だ、悲與殿の誠の姿を写しきれてはおらぬ」
「では、何故に人里へ降りると申されましょう」
「最早写すための紙が無うなってしまったのでござる。絵具の方も足りぬようになって参ったので」
「そうでございますか」
悲與は寂しげに俯く。
「なに、五日もせんで戻る。渡しの先数里も行かぬうちに宿場がござる故」
「五日でございますか」
「それほどもあれば十分であろう」
「少し」
悲與が震える声で云う。
そのまま黙ってしまった悲與を、蟋蟀は見つめる。
「少しばかり、お暇を頂けますでございましょうか」
「暇とな、さすれば某はその間に用事を済ませて戻って参りましょうぞ」
「いいえ。此処にいらして下さいまし」
「はて、それは如何なる由でござるか」
「由はお聞き下さいませぬよう」
「町へ行けば直ぐにでも戻り来ようものを。それに、悲與殿に甘味の一つでも土産にと思うておったのでござるが」
「そのようなものは要りませぬ」
「其方も女子でござろう。甘味を好まんと申されるのでござるか」
悲與は首を振る。
「もう忘れ申したものを、今更ながら思い出しとうはございませぬ」
「ふむ。そうまで申されるのなら」
「それでは、お待ち頂けるのでございますね」
「して、某は悲與殿が戻られるまで、何をしておればよいのでござるか」
「ただ、此処にいらして下さいまし」
「何もせずにか」
「此処より動かぬと、それだけをお約束下さいまし」
「それは、如何ほど長きのことでござるか」
「ほんの二、三日ほどでございます」
「二、三日とな。斯様な長き、何処へ参られるのでござろう」
「それは、申すわけには参りませぬ。どうか、お待ち下さいましな」
「分かり申した。某は此処にてお待ち致そう」
「誠有難く存じまする。では、わたくしは参ります」
悲與は洞穴の奥へと歩み出す。
「これ、悲與殿。外へ参られるのではござらぬのか」
「外に出ますと、里の者に見咎められます故」
「ふむ。して、此の奥には何がござるのであろうか」
「申し上げられませぬ。どうかお聞き下さいませぬよう」
「追うてもいかぬのでござるな」
「はい。それと、何がございましても、水場より奥へはお越し下さらぬよう」
「問うてもいかぬのでござるな」
「はい」
「ご安心なされよ。某は火種を絶やさぬように致そう。これまで其方には存分に世話になったのでな」
「お約束でございますよ」
「約束でござる」
微かに微笑むと、悲與は暗がりの奥へと消えて行った。
悲與は銭を今迄一度たりと受け取らなかった。里へ下りられぬ故、銭などものの役には立たぬと云いて。
蟋蟀は言葉通りに、洞穴に留まった。ただ、里の者が献じる贄を貰いに割れ岩迄の間を往き来するのみであった。描き足らぬものを描き、裏が使える紙には悲與の貌を思い返しては改めて描き直した。することが無くなれば横になり、外より漏れ入る緑の光に|微睡《まどろ》んだ。そうして、悲與の居らぬ日は暮れた。旅の身であれば独り物喰うのは常であったはず。しかしこうして独り食すことの物足りなさを蟋蟀はひしと感じた。温みを失った筵を向こうに見やり、横になる。まだ夜半には早い。独りは旅人の拠所、寂しきは気の迷いに過ぎぬと、蟋蟀は目を閉じた。
翌朝、蟋蟀が目を覚ましたのは陽の昇るより前のことであった。薄い靄が洞内に流れ込み、湿った空気の居心地の悪さに身震いして身を起こす。悲與の寝床は空のままであった。まだ一夜しか過ぎてはおらぬ。悲與は二、三日と申しておった筈。
身体を伸ばしに外へ出ると、薄靄の蒼に立つ木立に見入り、取って返して書き損じの紙に写し始めた。悲與の姿無しに絵を写すのは物足りぬことこの上なかった。斯くも寒く静けき様、物の怪の光に消えゆく逢魔が刻の裏が刻。世の醜きを明らかにする朝への憾み。鳥の羽搏きを以て靄は薄れゆき、樹間より光条が射せば、夜の名残は失せて朝の陰へと為りを潜める。
水場にて面を洗い、さてこれから如何にするかと思案する。此のところ悲與を写すことばかりに専心していたが故、外に何をすべきか考えねばならない。悲與はおらず、外は朝。明るみに出歩くのは、悲與と同じく里の者に怪しまれよう。
幾枚にも写した悲與の絵姿を見返しつつ、自らの絵の拙きに嘆息する。醜きものを写すと豪語しておきながら、これほどまでに得心のゆくものが描けぬとは何事ぞと思う。在るがままに写せぬのは、己の鍛錬の足りなさ故。必ずや悲與を写し、それを世に知らしめようぞと意を決める。それにはまず、悲與の戻りを待たねばならぬ。最早写す紙とて尽くされては、空になぞるよりなかった。
かくして、何事もなく刻は過ぎて行く。ただ穴の岩の具合、樹の洞を数えては無為に在るのも佳きことかも知れぬと蟋蟀は思う。此れもまた、人の世、現世の姿。忙しく在るばかりが世の則でもあるまい。草が草である如く、虫が虫である如く、人も人であるべし。さすれば、人とは如何なりや。忙しくしておれば、斯様なことに思いを馳せることもなかったものを、蟋蟀は思いて遊ぶ。これもまた、愉しからずやと。日は暮れて、二夜目が下りてくる。杜が闇に没して後、蟋蟀は割れ岩から持ち帰った贄で独りの夕餉を取った。
明くる日も、悲與は戻り来なかった。二、三日と言った言葉に偽りは憶えずとも、蟋蟀はその安否を案ずる。来るなと言われた穴の奥に耳を澄ますも、時折水の滴る音より他は届かなかった。一体悲與は何処へと向かったのか。確かめたいと欲する思いは耐え難きまでに昂る。しかし、約束を違える訳にはゆかぬ。待つと云うたならば、待たねばならぬ。心を遊ばすのも良いが、ここは精神を清めるのがよかろうと、衣を脱ぎ置いて、蟋蟀は水場へと向かう。奥の泉は身を切るほどに冷たく、長くは身を沈めてはおれぬほどだった。目を閉じ念仏を唱えていると、冷たさは熱を帯び、身内を温めてくれる。雑念を払い清らかな水に身を浸していると、現世の穢れが溶け出してゆくように感ぜられた。そう云えば、悲與はいつも水浴に刻を要していた。それが女子だからと思うていたが、このように穢れを落としていたのやも知れぬと改めて蟋蟀は思った。醜き故、穢れを落とすにかくも長きを要したのであろうと。身の憐を己で悟っていたのであろうかと、ただ醜きものとしか悲與を見ておらなんだ自らに恥の念を憶えた。待ちて居ろう。戻り来ると申したならば、悲與は必ずや蟋蟀が前に戻り来るであろう。
三日目の朝が明けた。寝ている間に悲與が戻るかと期待していたが、またもやそれは叶わなかった。二、三日と申したとて、思いもよらぬこともあろう。ここは腰を据えて待とうと、灰に火種を埋めて、蟋蟀は朝の気を受けに外へ出る。幸い、この間、雨は降らなんだ。悲與が何処へ行こうとも、足許に不安はなかろうて。この静けき刻も、また佳きかな。
その日も、悲與は戻り来なかった。身を清めたせいか、蟋蟀は焦りはしなかった。喰うものにも困りはせぬ。ただ描くものがないのみ。忙しく描くものを求めていた時とはまた異なる安堵の裡に、蟋蟀は眠る。明日こそは、悲與に見えんと。
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