聖なる彼女に《世界》を贈ろう

—オレの恋を神が邪魔するので、宗教改革することにしました—
葛西伸哉
葛西伸哉

第四章(2)

公開日時: 2020年10月25日(日) 07:00
文字数:2,488

 人は自らが幸せになるため、そして他者を幸福にするため、仕事に励む。その積み重ね繰り返しによって世界はよりよく変化していく。

 やがてその営みが完成して地上に理想郷が築かれた時、全ての人はそこで永遠の命を得て、孤神の友として暮らすのだという。だから盗みや奴隷売買など戒律に背く行為は別にして、地上でのあらゆる労働は楽園建設のための小さくも尊い積み石なのだ。

 死した者は天上に召され、今生での働きに応じて修行し、あるいは《安らぎの園》で天人の歓待を受けて充分に休息した後に、再び地上に生まれ落ちる。理想郷が完成するまではその繰り返しだ。

 イギーの前に現れた天人は、アレッタの顔をしていた。

「……ん……んあ……」

 重い瞼をどうにか持ち上げると、世界で一番魅力的な顔が見下ろしていた。

 ああ、そうか。天人は地上ではあり得ないほど美しいとかって書いてたっけ。だったらアレッタちゃんの顔をしてるのは当然だな--ぼやけた頭を、そんな考えがよぎる。

「お目覚めになられましたか? どこか具合の悪いところなどありませんか?」

 アレッタ天人は、優しい声で尋ねる。

 そういえば、この声を聞くのも何日ぶりだっけ。

「あ、それ以前にオレはいつどんな風に死んだんだ?」

 自制の緩んだ口から、思いつきがそのままこぼれた。

「何を仰るんですか。イギーさんはちゃんと生きていますよ。ここは《安らぎの園》ではありません。教会です」

「へ?」

 何とか頭の靄を振り払い、身体を起こす。

 眠っていたのは、コロンビーナに頼んで何度か使わせてもらった固いベッド。身体を覆っていたのも古毛布だ。

 確かにアレッタの格好も、絵の中の天人とは違っていつもの聖導尼スタイルだ。背中の翼も頭の光輪も見当たらない。

「え、えーと……どうしてオレ、ここに……?」

「まるまる2日もお眠りになっていたんですよ。お腹も空いているでしょう? 今、スープをお持ちしますね」

 アレッタの説明によると、熟睡しているイギーをジャンルーカが教会に運び込んで、銀貨数枚を寄進したのだという。

『こいつ、聖典の勉強で徹夜続きだから、少し面倒見てくれないか。俺は仕事もあるから』

「はっ! まさか?」

 不意に不安に駆られ、己の胸元を見下ろす。

 徹夜の間着っぱなしのシャツではなく、清潔なものに取り替えられていた。もちろん2日寝ていた分の汗や体臭はあるが、不潔ではない。頬に触ってみると、髭も一度剃られていた。

 ジャンルーカが前もって整えておいてくれたのか。さすがに気が利く。

「教義を学ぶのは大切ですけれど、身体を壊しては何にもなりませんよ。聖典にも『仮に聖句をひとつも知らずとも、日々の労働で信仰を体現している者は敬虔な信徒である』とあるように」

 アレッタが差し出すスープには、僅かな野菜とクルトンが浮かんでいるだけだ。

「ああ。確かにそんな事が書かれてたな……んっ! 美味いっ!!」

 抜粋版の前半、確か教義の基礎の基礎としてだ。

 空腹を気遣ったのだろう。スープは温めで、じんわりと舌に染み入り、胃の腑を暖めてくれる。

「あ、そうか。オレが初めて口にするアレッタちゃんの手料理か。くぅ~っ、そう考えるとますます美味いぜ!」

「いえ。シスター・コロンビーナが作りおいたものですよ。彼女の方がお料理は手慣れておりますし」

「……あ、そ……」

 急に味気なくなったような気がしたが、さすがにそれを口にするほど無作法ではない。アレッタへの印象だって悪くなるし。

「どうぞご遠慮なさらずに。本職のお医者様などに比べればできる事は限られておりますけれど、体調を崩された信者のお世話をするのも教会の仕事のうちですから」

「はは……体調崩したっつーても、ホントただの寝不足だから。それにしても、ちょいみっともないトコ見せちゃったな」

 スープを飲み干し、イギーは口元を手の甲で拭う。

「みっともないところ……と仰いますと?」

「ほら、ジャンルーカがバラしちゃったんだろ? 付け焼き刃で聖典猛勉強してるって。ホントは全巻版も完璧にマスターしてから、アレッタちゃんに格好いいところ見せたかったのよ。それに、油断しきった寝顔を見られるのはもうちょっと親しくなってからの方がよかった。どっちかってーと--あ、いや」

「どちらかというと……何でしょうか?」

「何でもないから気にしないでくれ」

 アレッタちゃんの寝顔を先に見たかった、なんて言ったらさすがに顰蹙を買う。

「それを、受け入れるのも教会と聖職者の役目ですわ」

 静かに微笑むアレッタ。

「それ……って?」

「常に気を張って強く立派なままでいるのは難しい事です。誰でも弱音を吐いたり、時には過ちを犯して懺悔したくなる事だってあるでしょう。それを受け入れるのも神様の偉大さなのですから」

 イギーは一度も使った事はないが、教会には必ず告解室がある。

 信徒が罪や秘密を打ち明け、許しを請うための小部屋。そこで話された内容は決して他人には漏らされない。

「いや、神様に知られるとかじゃなくてさ。アレッタちゃんに知られたくないのよ。弱いトコとかみっともないトコとか」

 こんな事を直に言ってしまう自体がかなりみっともないとは思うが、これは言わずにはいられない。弱音吐いても平気とか思われたら、さすがに男としての面目が傷つく。

「聖職者たるわたくしは神の目であり、耳ですわ。信者の方が打ち明けられた事、なされた事は、告解室以外であっても秘密にいたします」

「神様じゃねえよ」

 つい、語調が強くなる。

「オレが! 他でもないこのオレが! アレッタちゃんっていうひとりの人間に、まだ見られたくないところを見られちゃったのがちょっと嫌って事なのよ」

「ですから、わたくしの私というものはありません。使徒として、全てを神に捧げた身なのですから」

 イギーを見つめるアレッタの瞳には、一点の曇りも陰りもなかった。

「そうじゃなくて……そうじゃないんだよ」

 既に、それは訴えではなく独り言だった。

「どうなさいました? まだ具合の悪いところでも」

「……いや。何でもねえ。ありがとう。神様に、感謝を」

「はい。神に感謝を」

 作法に則っていないイギーの雑な言葉にも、アレッタは指を組んで祈りを返した。


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