聖なる彼女に《世界》を贈ろう

—オレの恋を神が邪魔するので、宗教改革することにしました—
葛西伸哉
葛西伸哉

第四章 神が世界が邪魔をする

第四章(1)

公開日時: 2020年10月24日(土) 07:00
文字数:2,204

「今、戻ったぜ」

「お~ぅ……」

 半日がかりの仕事をひとつ片付け、買い物の袋を抱えて帰ってきたジャンルーカを出迎えたのは、墓場の底から響くような弱々しくも不気味な声。

「……大丈夫か、イギー? 根詰めるにしても限度ってモンがあるだろ?」

「いや。まだ抜粋版さえ終わってない。この調子じゃ、全部読み終える頃にはジジイになっちまう。アレッタちゃんは歳をとっても美しいだろうが、オレがヨボヨボになったんじゃ釣り合わねえ」

 部屋の隅、床の上にぺたんと座り、本の山と戦うイギーの目の下には、濃い隈が浮かんでいた。頬は落ちくぼみ、無精髭が生えている。室内は散らかっているが、これは遠慮のない男のふたり暮らしではいつもの通り。ジャンルーカが出かける前と大差ない。

 つまり、イギーはほとんど動かずにひたすら聖典と格闘していたという事だ。

「お前、メシちゃんと食ってるか?」

「メシ……メシ……? メシって……? ああ、そうか。思い出した。昨日の朝はパンを食ったはずだ、確か」

 確かに、イギーの傍らには微かにパン屑が残るバスケットと、空になって乾いたコップが転がっている。

「じゃあお前、俺が仕事に行ってから飲み食いしてないのか? 睡眠は……って寝てるはずもないか」

 聖典を借りてきて以来イギーは籠もりっきりだが、ジャンルーカの方は毎日何かの仕事に出ている。ずっと相棒を監視している訳ではない。そうしないと、家賃も食費も稼げない。何しろ相棒の方がこの有様だ。

「今日で3、4……6日目だな」

 指を開きながら数えるイギー。

「待て待て待てっ! 4の次は5だっ! お前の左手の指も全部で5本っ!」

「ああ……そうだったっけ?」

 半開きの口から、すかすかした声が漏れる。

「ンな無理したって効率も上がらないし、頭にも入らないだろうが……んっ!」

 近寄って、ジャンルーカは顔をしかめる。

 当然丸五日、入浴はもちろん着替えもしていない。季節は既に秋とはいえ、さすがに汗や脂が染みついて、近い距離だと異臭が漂ってくる。いつもお洒落に気を遣うイギーとは思えない状態だった。

「頭に入らない……? いや。それは常識的な世界の話だ。オレは今、愛の奇蹟を起こそうとしている。起こせる。起こす」

 虚ろに笑うイギーの目は、真っ赤に充血している。

「それに、根詰めて頑張った甲斐があって、辞書と首っ引きならそこそこ読めるようになったし、抜粋版の方はだいたい理解したぜ、はは……」

 最初のうちは辞書の引き方さえわからず、単語ひとつごとにジャンルーカに泣きついていたのを思えば、長足の進歩なのは確かだ。

「確かに抜粋版の内容だとガキの頃に教会で教わった事のおさらいだけどな。改めて読んでみると結構いい事言ってんだよな。『どんな労働も尊く、職業に貴賎はない』とか『日々繰り返される営みの中に、神とのつながりはある』とか」

 体力気力ともに限界寸前というか、既に限界を超えているので、声にも力がない。長年の相棒でなければ恐らく聞き取れない音量だ。

「そりゃみんなが納得する教えじゃなきゃ、世界中には広まらんだろうさ。それに『しっかり働くためにも健康であるべし』ってのもあるぞ。飲まず食わずで徹夜するのは教えに適う事か? 身体壊したり死んだりしたら恋も結婚もないだろうが! ツラ洗って、腹になんか入れて寝ろ!」

 袋に手を突っ込み、本来は自分が食べるために買ったリンゴを取り出して放る。

 いつもならキャッチされるであろううそれは、緩い放物線を描いてイギーの頭に命中した。床の上を空しく転がり、聖典別巻の背表紙に当たって止まる。

「……いや、1日も早くアレッタちゃんに会うためにも、聖典を完璧にマスターしてみせる!」

「完璧って言ったら、どれだけ頑張ってもひと月ふた月じゃ無理だぞ。全巻版は雅文体っていって古典語の中でも更に難解なんだ。いいから寝ろ!」

「はは、大丈夫大丈夫。この調子であと2か月くらいは寝なくても」

 そう言いながら、立てて示した指は3本。

「お前は恋に浮かれてる上に寝不足で、判断力がゼロどころかマイナスだ。このままじゃ死ぬぞ」

「ははは……愛に生きるオレが、志半ばで死ぬなんて、そんなのは絶対にない」

「何の根拠にもなってない! こんなところで死なれたり倒れられたりしたら、俺が後始末に困るっての!」

 ジャンルーカはずかずか大股で歩み寄ると、イギーの顎をつかみ持ち上げた。

 袋から酒瓶を取り出し、片手だけで器用にコルク栓を弾き飛ばすと強引に相棒の口へと突っ込む。

「……ふぐっ! ぶぎゅっ!」

 ごぼごぼと流れ込み、飲みきれない分が口の端から顎へ、首筋へと伝い落ちる。

「ごべ! ばべばぼっばびべげぼげ!」

「元々味は二の次で酔っ払うための強い安酒だ。もったいなくはない」

 イギーの言わんとする事を、ジャンルーカは驚異の洞察力で理解した。

 きゅぽんっ!

 引っこ抜いた瓶の口を、ハンカチで拭う。

「はにゃ……。なにひやがる……。こんなんで、オレのあひは……」

 ジャンルーカに反撃しようとするイギーだが、既に呂律が回っていない。視線がぐるんぐるん泳ぎ、身体が大きく傾く。徹夜と過労に、アルコールは覿面てきめんに効く。

「……らめらぁ……。そっちだと、借りた本を痛める……」

 根性か。それとも愛のなせる技か。倒れかけた身体を片手で支えて聖典の上に横たわるのを防ぎ、その腕の力だけで強引に逆側へ勢いをつける。ほとんど顔から倒れ込むような形で突っ伏したイギーは、すぐにいびきをかき始めた。


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