姿はすっかり町娘風ではあったが、ヴォルニッテの石畳を歩むアレッタの足取りは、ちょっと頼りない。
「大丈夫? アレッタちゃん?」
「ええ。こんな高い靴は初めてなので、勝手が違って……。でも、こんな風にいつもとは違う装いですと、不思議と気分が弾むものですね」
いつもの口調も町娘姿だとちょっと違和感があって、まるで貴族の令嬢がお忍びで変装しているみたいだ。とは言え、イギーは本物の貴族なんて知らないのだけど。
自由になった髪が気になるのか、アレッタはしきりに指で耳のあたりを整える。
「やっぱ、教会の暮らしは息苦しい?」
イギーの声には、隠しきれない期待の響きが混じっていた。
「いいえ。充実していますし、満足もしています。神のために日々働くのは、心が浮き立つ行いですわ」
しかし、アレッタの返答はイギーの意に沿わないものだった。
『もっと自由に恋したい』とまでは望んでいなかったが。
「ですが、こんな風に市井の方々と同じ体験をするのも大切で有意義だと思います。信徒の皆様により近づき、深く理解する好機になりますから」
じゃあ恋愛も、とはさすがに口にできない。
「この街には馴れた?」
だから、イギーは当たり障りのない質問で会話を繋いだ。
「いいえ、まだ全然。まだほとんど教会の中の仕事ばかりですし。ですから今日、イギーさんに案内していただけるのを、大変嬉しく思いますわ」
「で、言った通りお昼食べないできたよね?」
「はい。というか、普段は日に2度ですから」
街の小さな教会は資金繰りが苦しいので、食事は朝昼兼用と夜の2度が基本だ。自分たちが食べる余裕があるのならもっと貧しく飢えた人たちのためのスープや毛布を、というのが聖職者の務めである。
「今日は全部オレのおごりだからさ。遠慮しないでよ。聖職者は質素にって決まりだけど、信徒からの歓待は遠慮せずに受けるべしってのもあるだろ?」
これは、聖典全巻版の副読本で予習済みのポイントだ。
「ええ、そうですね。信徒の方々から差し出されるものは、全て尊い労働の成果なのですから、無駄にしてはいけませんもの」
同じ理由で、食に関する厳格な禁忌もない。
「アレッタちゃん。何か食べてみたいものある?」
「イギーさんにお任せしますわ。わたくし、外でのお食事とか何にも知りませんので」
アレッタの顔に、ほんの少しはにかみの色が浮かんだ。
「OK、任せてくれよ」
「あっ!」
イギーが手を握ると、アレッタは小さく声を上げる。
ただ、反応はそれだけだ。多分、いきなりでびっくりしただけ。はぐれないように握ったという理解で、それ以上の意味なんて考えていないだろう。
そのまま彼女を先導して、港湾地区にほど近い繁華街へ向かう。食料や衣類、日用品などは中央広場に天幕市が立つが、この通りには宿屋や酒場、料理屋などの常設店が軒を連ねている。通りにまでテーブルを出している店もあり、日の高いうちから酔っ払っている者の姿もあった。
「……昼間からお酒ですか?」
「これは、ヴォルニッテの事情って奴さ」
アレッタの疑念の中にほんの一滴混じった嫌悪の成分を、イギーは感じ取った。労働を神聖視する孤神真教の教えからすれば、明るいうちの飲酒にはいい印象を持たなくても仕方がない。
「港街だからな。みんながみんな、朝起きて夜に寝るって訳にはいかない。外国とか、長距離航路の船だと発着が早朝だったり夜だったりするのも珍しくないからな。午前中に入港して荷下ろしとかした連中は、今がちょうど骨休め。一杯引っかけてこれからひと寝ってところさ」
「ああ……そういう事なのですね。理解いたしました。確かに、仕事の後の休息は大切ですものね。身体の疲れはもちろん、心の憂さ晴らしも」
反省--というか、偏見を抱いていた事に対する懺悔なのだろう。胸元で指を動かし、略式の聖印を切る。
「ヴォルニッテは、そういう街なんだ。四六時中人やモノの出入りがあって、活気があって……だからオレたちみたいな稼業も成り立つって訳。オレは、好きだぜ」
忙しない都市の混乱があればこそ、金を払ってでも急いで他人に頼みたい雑事が多く、イギーとジャンルーカも食いっぱぐれない。
「そうですか。わたくしも、この街を好きになりたいと思います。これから長い間、暮らすのですし」
「そっか。好きになりたいんだ」
「ええ」
イギーの言葉にアレッタは素直に頷く。
「じゃ、まずお昼はここで」
案内したのは、〈旗魚亭〉という料理店だ。文字を読めない客もいるので、その名の通り旗魚を象った板を看板として吊している。
「へい、らっしゃい……って、イギーか。久しぶりだな」
小太り筋肉質で顔には髭を整えた店主が、カウンターの奥から陽気に出迎える。
生活時間が不規則なヴォルニッテでも、やや遅い昼食時だ。店内はかなり賑わっていて、空いているのはカウンターの隅と、テーブルがひとつだけだった。しかも、前の客が立ち去ったばかりなのか卓の上には前の客が使った空の食器が残っていた。
「そこのテーブル、いいよね? さ、アレッタちゃん、座って座って」
椅子を引いてアレッタを座らせると、本職のウエイターめいた動きで食器を片付ける。
「そういう事をされると、駄目とは言えないよな。ほれ」
「あんがとよ。じゃ、スペシャル2人前、頼むわ。白ワインと、オレンジ水つけてな」
店主から受け取った布巾でテーブルを綺麗に吹き上げ、使い終わったものをカウンターの向こうに放る。
「イギー、その娘だぁれ? 新しい彼女?」
「すげえ美人じゃねえか」
「どこで見つけてきたんだ、そんな上玉」
カウンターでイカのフライをアテにほろ酔い加減の女や、奥のテーブルで談笑してる船乗り風の男たちから次々と声がかかる。
「残念だけど、まだ彼女じゃねえよ。一応仕事中なんだから、余計なちょっかいかけないでくれよな!」
明るく答えて、イギーは席に着く。
「ごめんな。ガラ悪い連中ばっかりで。中心街の方にはもっと上品なレストランやホテルもあるんだけど、さすがにそういうところはオレも不案内で。これでもオレのいきつけの中じゃ上品で、女性をエスコートしても大丈夫な方なんだけどさ。他は、安いけど出どころ怪しい酒飲ませるところとか、酔っ払いがいつもケンカしてるトコとか」
「いえ。皆様たいへんに明るく、活気があって素敵だと思いますわ。ただ……」
特に潜めてもいないアレッタの美声は、よく通る。店内の視線が、自然と彼女へと集まる。
「ただ、何か?」
「どうして皆様、わたくしがここにいるのに『彼女』というような遠い呼び方をなさっているのでしょうか?」
どっ!
店内に笑いが起きた。
「……わたくし、何か面白い事を言ってしまったのでしょうか?」
「い、いや……そうじゃないけど……お前ら、みんな失礼だろっ!」
どうにか笑いを堪えながら、イギーは店内に怒鳴る。
アレッタは「彼女」のニュアンスが理解できず、単なる三人称だと勘違いしたのだ。
「なぁるほど。どっかの箱入りお嬢様? そりゃイギーには似合わないわ」
カウンターの女が、エールのジョッキを掲げる。
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