「アレッタ。アレッタちゃんね。うん、名前も素敵だ」
半ば反射的に口走ったが、アレッタというのは結構ありふれている平凡な名前だ。
名前そのものは凡庸でも、目の前の美人のものだと思えば途端に唯一無二の輝きをまとう。
「どうもありがとうございます。あら? イグナティオさん、お怪我を……」
「ああ、大丈夫大丈夫。大したこっちゃないの。このくらい、慣れてるし」
「いけませんわ。化膿でもしたら腕が使えなくなるか、最悪命にも関わります。少々そこに掛けてお待ちください。傷ついた信徒を癒やすのも、教会の役目です」
一礼すると、アレッタは小走りで去り、すぐに薬箱を手に戻ってきた。
「見せてください。それと、ここを押さえてくださいますか? なるべく強く」
傷口より上、上腕の付け根の一点を、イギーは言われた通りに左手で押さえた。
「孤なる神よ。敬虔な信徒の傷を癒やし、痛みを和らげたまえ。再びこの者が、楽園の作り手として働けるよう」
歌うように口ずさみながら、跪いたアレッタは濡れた布で丁寧に傷を拭い、陶器の小瓶から黄色い軟膏を取り出して丁寧に塗り込めていく。
おとぎ話やお芝居なら神に仕える聖職者が奇蹟を起こして傷病を癒やしたりするが、現実にはそんな都合のいい魔法は存在しない。怪我をしたら薬を塗って、直るまで何日も待つしかない。
彼女が口にしたのは、あくまでも聖職者としての祈りだ。
「この程度だと、縫わなくても大丈夫みたいですね。きつめに圧迫しますので、後で折りを見て緩めてください。できれば、明日にでも本職のお医者さんに診てもらった方がよいと思います」
清潔な布を当て、その上から包帯を巻き付けて縛る。
「あ、ああ……。ありがとう。手当、上手なんだな」
いつものシスター・コロンビーナだったら薬箱放り投げて『勝手にやってよね』で終わりだ。もちろん祈りの言葉もなし。まあ、タダで薬と包帯を恵んでくれるのだから、文句を言う筋合いではないのだが。
「どういたしまして。怪我や病気の手当についてはきちんと学びましたので」
「そういや、怪我の理由とか訊かないんだな」
こっちが多少危ない仕事にも関わるのを知ってるコロンビーナと違って、アレッタとは今日が初対面だ。こちらの素性も稼業も知らない。胡散臭い男が夜中に教会に駆け込んできて、しかも明らかに刃物傷。普通だったら根掘り葉掘り尋ねられそうなものだが。
「そちらからお話にならないのですから、特に語りたくはないのでしょう? 事情が何であれ、救いを求めて教会を訪れた方には手を差し伸べるのが神のご意志であり、聖職者の務めです」
素直で真っ直ぐな言葉だが、イギーがそれを飲み込むには一呼吸ほどの時間が必要だった。確かに本来の教義ではそうなのかも知れないけれど--詳しくないので推測だが--きっぱりとこう言う人間は初めてだった。
しかも、それを口にする時の優しい微笑がまたかわいい。
びっくりしても、戸惑っても、心配そうでも、全部が全部それぞれが魅力的だ。まるで最高の素材を、異なるソースで味付けた絶品の料理が並んでるみたいに。
そういう形容を思いついたが、イギーはそれほどの高級料理を食べた経験はない。
「あの……どうかなさいましたか?」
小首を傾げてアレッタが尋ねる。
また、いつの間にか彼女の顔を見つめてしまっていたのだ。
いや、見とれていたという方が正確か。
「アレッタちゃん」
イギーは乾いた血がまだ少し残る指で、アレッタの手をぎゅっと握りしめた。
「はい? 何でしょうか、イグナティオさん?」
「えっと……イギーって呼んでくれ。そう呼ばれる方が慣れてる」
「わかりました、イギーさん」
「オレ、結婚したいんだ!」
「それは、素敵ですわね」
「あなたに、お願いしたいんだ」
「ええ。わたくしで宜しければ喜んで」
にっこりと微笑んで頷く。
「ホント? ホントにホント? 間違いないよね?」
「もちろんですわ。神に仕える身として、二言はございません」
「いやっほぉっ! やったぁ! やったぜ! オレ様万歳っ! ああ、人生って素晴らしい! 生きてるって最高だぜ! 神様、ありがとう!」
生まれて初めての、心からの神への感謝。
「それで、結婚というのはどなたとでしょうか? わたくし、婚礼の祝福は初めてですけど一応祭司の資格はありますし、精一杯務めさせていただきますわ」
「はえ?」
予期せぬ反応に、イギーの顎がかくんと落ちた。
「えーっと……ひょっとして、アレッタさん、何か勘違い、してる?」
「ですから、イギーさんがご結婚されるので、式の祝福をわたくしにお願いしたいという事でしょう? 婚姻の務めは初めてですけど、聖職者として精一杯頑張りますね」
ふざけている様子はない。
アレッタは真面目に、真剣に、誠実にイギーに答えている。その表情がまた目に焼き付いて離れない。
「そ、そ、そうじゃなくてさっ! オレは、あんたと結婚したいの! 惚れちゃったんだよ! そりゃさっき会ったばかりで名前くらいしか知らないけど、本気も本気だからっ! 一目惚れだからっていい加減な気持ちじゃねえんだ!」
気持ちが浮つくと、言葉も上滑りする。
裏町でヤバい仕事をしてその日をしのいできた身だ。これまで女性と無縁の、慎ましく純潔の生活を送ってきたなんて言わない。
だけど、ひとりの相手に心奪われ、身を固めてずっと一緒にいたいなんて衝動は初めてだ。
「あの……ご冗談、ですよね?」
「冗談じゃねえっての!」
「ですが、わたくしは神に生涯を捧げた聖導尼です。結婚はできません」
「え? あ……、あああーっ!」
今さらのように気づく。
そうだ。
そうだった。
聖導尼を含め、孤神真教の聖職者は結婚しない、できない。
それが常識であり、世の摂理だった。
「わ、悪ぃっ! 変な事言っちゃってよ!」
馬鹿げた事を口走ってしまった恥ずかしさに、イギーの顔が熱く火照る。逃げ出すように教会を飛び出し、夜の下町を全力疾走する。
幸い、例のゴロツキが待ち伏せてるなんて事態は起きなかった。
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