聖なる彼女に《世界》を贈ろう

—オレの恋を神が邪魔するので、宗教改革することにしました—
葛西伸哉
葛西伸哉

第三章(2)

公開日時: 2020年10月23日(金) 07:00
更新日時: 2021年6月24日(木) 16:04
文字数:3,690

「借金の取り立ては、俺が行きますよ。弱みにつけこんで脅すけれど、法には触れないなんて微妙な交渉は、今のイギーには任せない方がいい。舞い上がっててコンディション落ちてますからね」

「じゃ、宜しくねぇ。こっちは、イギーちゃんに」

 メルセディシアはイギーに向けて小袋を放った。右手ひとつでそれをキャッチする。革の上からでもわかるコインの重さと感触。サイズからすると、銀貨だ。

「それは、さっきイギーちゃんが要求してた怪我の分のお手当。わたしだって、血も涙もない悪魔じゃないの」

「ちゃーんと用意してたって訳ね。あ、そうだ。ついでにもうひとつお願いがある。後ろにぞろーっと並んでる偉そうな本。その中に孤神真教の聖典もあるだろ? 貸してくれないか?」

 基本的に、書物は高い。

 専門の書写師が何か月もかけて丁寧に書き写すか。あるいは一ページずつ彫り込んだ版で刷るか。この書斎に棚に収められているような豪華な革張り装丁なら、一冊が庶民の数か月分の生活費にもなる。

 もちろん初等学校でもテキストは使うが、数ページを安っぽく綴じただけで、しかも貸し出し制だ。ボロボロになるまで何代も引き継がれる。

 本なんて読まないイギーだが、単に高価な品として移送の仕事を請け負った経験はある。

「聖典なんて読まないから別にいいけどぉ……。どっち?」

「へ? どっちって?」

「二種類あるんだよ。普段の説法に使う、エッセンスをまとめた抜粋版。教祖や直弟子が記した内容を全てまとめた全巻版。ま、普通の暮らししてる分には、全巻版なんて無縁だがな」

 メルセディシアではなく、ジャンルーカが答える。

「両方あるんなら、当然全巻版を貸してくれ。何しろ、完っ璧にマスターして本職とも渡り合わなくちゃいけないんだからな」

「あ、そ。じゃあ、そっちの下段だから持っていって」

 マニキュアを塗った指が、右壁に作り付けの本棚を指す。

「下段の、どれだ?」

 革装丁大判の本がぞろりと並んでいる。背表紙にタイトルは記されているものの、優雅すぎる飾り文字なのでイギーには判別が難しい。

「だぁからぁ、下段の8冊、全部よぉ」

「へ?」

「聖典全巻版っていうのは、8冊で1セット。ついでに、別巻や副読本まで合わせると14冊。で、下の段全部って訳ね。借りてく?」

 頬杖をついて、メルセディシアが尋ねる。力自慢の若い男でも、一度に運ぶには厳しい分量だ。

「お……おうよっ! オレ、人生で最高にやる気出してるからな。このくらいの本なんて大した障害じゃねえ」

「意気込むのはいいが、試しに1冊目を通してみた方がいいぞ」

 そう言ってジャンルーカは、8冊揃いの第1巻を取り出した。

「馬鹿にすんなよ。オレだってちゃんと初等学校出てんだし、本くらいは普通に--」

 読み書きができなければ何でも屋は務まらない。トラブルが起きないように最低限の文書は交わすのが基本だし、時には手紙の代筆や代読なども請け負うのだから。

 だが--。

「え? あれ?」

 適当に開いたページを前に、イギーは目を丸くする。

 文字そのものは、日頃使っているガルディーヤ語と同じだ。けれど、どの単語もスペルが微妙に違う。微妙ならまだしも、まるっきり知らないものも。それどころかガルディーヤ語の常識では発音不可能な並び方もあった。

 当然、文章全体の意味はほとんどつかめない。

「こいつは何だ? グスマン語か? それともクルーゼック語か?」

 ガルディーヤに隣接するふたつの国の名を挙げる。どちらも文字は同じだがいろいろ違っている。というか、イギーが理解しているのは「外国語は、同じ字なのに自分には読めない」という事実だけなのだが。

「どっちでもない。こいつは、大陸古典語だ」

「古典語?」

「500年以上前、統一帝国があった時代の言葉で、ガルディーヤ語やグスマン語の起源だ。ちなみに孤神真教が興ったのはざっと千年前な。聖典はこいつで書かれているし、格式張った公文書や文学作品なんかでも使われる。ただし、普通に喋ってる奴はもう誰もいない。今じゃ読み書き専用、学問専用だ」

 ジャンルーカの人差し指が宙を走った。一瞬遅れて理解する。イギーが手にした本の表題と同じ。古典語で『聖典』を表す単語だ。

「一応忠告しておくと、抜粋版も古典語だからな。古典語にしろ教義にしろ、入門用としちゃいきなり全巻版じゃなくて、そっちを読んでおいた方がまだ頭に入るぞ」

「昔、教会で聞いた説法とか、普通にガルディーヤ語だったぜ」

「あれは、翻訳して話してるんだよ。古典語じゃ、文章は読み下せても音読は不可能だから」

 文書だけが残っている言語なので、正確な発音は誰も知らない。そうジャンルーカは付け加えた。

「じゃあ、アレッタちゃんも、あのコロンビーナも、みんな古典語自由自在なのかよ? この本、読破したってのか? このクソ高そうな本、ワンセットずつ持ってる?」

「アレッタはどうだかわからないが、コロンビーナは無理だ。前に本人が言ってた」

 教団中枢はともかく、末端の教会は貧乏だ。建物が傷んでも本職の大工を雇えないくらいに。だから、聖職者といえど全巻版をひとりがひと組ずつ購入するのは難しい。だから聖導士や聖導尼は修行も兼ねて、自分の手で抜粋版を書き写す。全巻版を常備しているのは、ある程度大きな教会だけ。

「それをやりとげて、初めて聖職者としての資格を得るって訳だ」

「1冊まるごと書き写す? じゃあ古典語完璧じゃねえか?」

「そうじゃない。ただ正確に書き写せば合格だから、意味や文法なんて理解しなくても構わないんだ。教義についちゃ指導者から口伝で教わるのがメインだしな。だから、教義の原点をきちんと理解したいっていう熱心な信者か、教団内での出世を目指すような奴でもない限りは、古典語そのものをマスターする必要はない--って話だ」

「じゃあ信心深いアレッタちゃんはこっちを全部読んでる可能性大って訳か……」

 大量の本を横目で、イギーはため息をつく。

「あれ? そういやひょっとしてふたりとも、古典語ひと通り読めたりする?」

 メルセディシアは本の所有者だし、ジャンルーカにしても妙に詳しい。さっきも単語ひとつを宙に綴ってみせたし。

「当然よぉ。上流階級のたしなみですものぉ。古典語の詩とか理解できないと社交界で恥かいちゃうしぃ」

「じゃあ、教えてくれっ!」

「はいはい。机に手、突かないの」

 思わず飛び出し身を乗り出したイギーを、メルセディシアが窘める。

「教えるくらいはできるけどぉ古典語の家庭教師っていうと、月にこのくらいはかかるのよねぇ?」

 メルセディシアは、机上の羊皮紙にペンを走らせて数字を記した。イギーにとっては3か月分の収入だ。

「……顔なじみ価格って事で、マケてくんない? 10分の1くらいに」

「そもそもぉ、わたしが仕事を頼む側、イギーちゃんたちが受ける側。便利屋じゃあるまいし、本業が忙しいのに、片手間にかまけてる余裕なんてないわぁ。相場の10倍積まれたら考えないでもないけどぉ。命には値段つけられないけど、生きてる人間の時間はそうじゃないの。わたし、時間あたりの収益だとイギーちゃんの何倍かしらねぇ?」

「だよなぁ……。それじゃジャンルーカ! お前、どの程度わかる? 教えてもらえるか?」

「生憎だが、俺は基本的な文法と単語を知ってるくらいだ。昔習ったのもかなり忘れてしまってるし、辞書と首っ引きでどうにかってレベル。とても人に教えられるモンじゃない」

「辞書? そうか、辞書ってモンがあるんだよな? メルセディシア、辞書も貸してくれっ! それさえありゃあ何とかなるよな、うん!」

「お前、外国語とかも全然駄目なのに、どこからその確信が来るのか、俺は不思議だよ」

「どこからって、そりゃあ愛に決まってるじゃねえか。真実の愛は、どんな困難でも超えるんだよ!」

「まあ、お前が真剣なのはわかった。挫折するまでの間、時間がかかる面倒な案件は俺が優先で引き受けてやる。文法とかも、わかってるところは教えてやるさ。どうせ今の状態じゃ仕事に身が入らないだろ」

「ありがとうよ。それでこそ、長年の相棒ってモンだぜ!」

 イギーはメルセディシアから鞄を借り、聖典全巻版8冊副読本6冊抜粋版1冊古典語辞書1冊古典語参考書1冊、合計17冊を詰め込む。ひとつには収まりきらず、両手にひとつずつ提げた上に背負いのザックも必要になった。

「ぐぐぐ……重い……。なあ、ひとつくらい、持ってくれない?」

 立ち上がれず、尻餅をついたままイギーはジャンルーカを見上げる。

「愛の重さだと思って頑張るんだな。辛くて諦めるなら、それでも構わんぞ」

「そいつは違うぜ。オレの愛は、もっと重くて頑丈で揺るがない。そいつを胸に抱えてるのに比べたら、背中にこの程度のウェイトがかかるなんて大した事じゃねえっ! ふんっ!」

 気合い一発。

 眉間に皺を寄せてイギーは立ち上がった。

「おー。やるわねぇ」

 メルセディシアがぱちぱちと白々しい拍手をして、ジャンルーカも「ほう」と小さな声を上げる。

「……こいつが乗り越えなきゃならない試練の重さだって言うなら、引き受けて当然ってモンよ、ははははっ!」

 笑い声だけは威勢がいいが、脚はふらついていた。


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