第一章 聖女と出会った夜(1)
「……くそっ!」
ナイフで傷ついた左腕を押さえながら、夜の倉庫街をイギー--イグナティオ・クレベーロはよたよたと走っていた。
右手に感じる熱いぬめりが鬱陶しい。金臭さがまとわりついて、いつまでも鼻が馴れてくれない。出血したまま全力疾走したせいか痛みは激しく、足下もふらついてしまう。ぎりぎりで「貧弱」ではなく「スマート」で通る体格は、身軽ではあるが頑丈さやタフネスには欠け、ダメージにはあまり強くないのだ。
ヴォルニッテはガルディーヤ王国でも有数の大きな港町だ。
夜でも帆船の発着や人の往来がある港湾地区には鯨油式の常夜灯も設置されているし、灯台の光もあって明るい。逃走に適した環境とは言いがたいが、幸い敵はもう追いかけてはいないらしい。イギーは足を緩めて息を継ぐ。
「はぁ。……ったく……。なんでオレは毎度毎度こうもツイてねえんだよ?」
毒づいて、唾を吐き捨てる。
イギーは間違っている。
彼が負傷したのは、不運のせいではない。
思慮が足りなかったせいだ。
そもそもはいつもの通りの、単純で簡単な請負仕事のつもりだった。
何度催促しても返してくれない、利息が膨れ上がって焦げ付きそうな借金を取り立てるだけの、簡単なお遣い。
と思って出向いたら、相手の倉庫主が雇った用心棒というかゴロツキが一緒にいた。髭面で筋肉ムキムキ。タトゥーの入った太い腕を見せびらかす袖なし服の、見るからに荒事大好きというおっさん。裏町で何度か見かけた事はあったが、直接関わった経験はない。
『誰だよ、そいつは?』と尋ねたら、いきなりナイフを抜いて襲いかかってきたのだ。
華麗に--主観的には--身を躱して致命傷は避けて全力で走り、何とかここまで逃れてきた。
慎重を期すならまず物陰から相手の様子を確認し、不審な奴が一緒にいる時点で予定を変更するべきだった。じっくり観察すれば、ふたりの会話で意図を推測もできただろう。何の手立てもなくいきなり真正面から話しかけたのは、まあはっきり言って軽率であり、油断だった。
それでも下手に刃向かったりせず証文を持ったまま逃走したのは、イギーなりの好判断だ。伊達に3年も何でも屋稼業をやってきた訳ではない。世間の目は無職かチンピラとほとんど変わらない扱いであっても違法な行為には手を出さずに金を稼いでるし、いろいろ場数は踏んでいる。
あのゴロツキとやり合うのは危ないという判断は、しっかりとできた。
手順がひとつ遅かった訳だが。
「……オレは知的な色男だから、暴力沙汰は苦手なんだよ。何だよ、いきなり刃物って? それが文明人のやることかっての」
軽薄な独り言で、己を鼓舞する。
「……まずは怪我、手当てしなきゃあな。さすがにこのままじゃちょいマズいぜ」
何でも屋を始める前から数えても、刃傷はこれが初めてという訳ではない。指が普通に動かせるし、先端の感覚もあるからそれほど深手ではなさそうだ。
ただし、出血が思ったより多い。
依頼人に報告するのは明日午後の予定だし、可能性は極めて小さいけれど、こっちのねぐらで待ち伏せされてるかも知れない。これまで何度も取り立てに出向いて、本題の借金はなかなか返してもらえなかったけれど、借り主に顔や名前は覚えられているのだから。
となると、教会に匿ってもらうのが手か。
生臭シスターのコロンビーナとは顔なじみだし、よしんば尾行されてるとしてもゴロツキが教会に踏み込んでくるとは思えない。孤神真教の施設での暴力沙汰は重大な禁忌だ。教会の方だって建前上「困りごとがあって訪れた信者」は保護する。
実のところ、イギーは孤神真教の熱心な信者ではない。それどころか聖典をちゃんと読んだ事もなければ、聖句ひとつ暗唱できない。
ただ、ガルディーヤ王国全域どころか大陸全体、この世界のどこでも孤神真教がほとんど唯一の信仰として広がり、どんな町にも村にも教会があって、誰もが洗礼を受けている。
信徒でなければ結婚式も葬式も挙げられないから、信者であるのが当たり前。単にイギーも例外ではないというだけの事だ。受洗したのだって物心つくかつかないかの頃で、自発的だった訳でもない。
頼りない足取りでたどり着いたのは、港湾地区と貧民街の境目あたりの小さく古びた建物。ヴォルニッテ南第三教会の裏窓、壊れかけた鎧戸の隙間からは、蝋燭の揺らめく明かりが漏れていた。
よし、これなら大丈夫。
イギーはいつものように、音を立てぬようそっと裏口を開け、足音を殺して礼拝堂へと侵入していく。
聖導尼の平服に身を包んだ後ろ姿が、箒を手に床を掃いていた。
真面目に掃除なんて珍しいな。ま、あいつも一応はシスターらしい仕事もしなきゃならないってあたりか。
感想を声には出さず、忍び足で近寄る。向こうは気づく様子もない。
右手を傷口から離し、太もものあたりでごしごし擦って血を落とす。
「よっ、こーんばんわっ!」
片腕で、後から抱きしめる。
一応、こっちの血で汚してしまわないように気をつけた。
「きゃあっ!」
「きゃあ?」
おかしい。
いつもと反応が違う。
普段だったら『なーに? また何かやらかしたの?』とか軽口が返ってくる。こんな悲鳴なんて上げるはずがない。
そもそも、声が違う。それに胸のサイズも大きい。さわり心地がたゆんと柔らかい。考えてみたら身長もコロンビーナより高い。
問:これはどういう事でしょう?
答:別人です。
「わ、悪ぃっ!」
思わず腕を放す。
「あ、あの……どなたでしょうか?」
箒を手に振り返ったのは見知らぬ顔だった。
それも、とびきり美しい顔。
歳は16、7あたりか。
自然に潤んだ大きな瞳、すっきり通ったほどよい高さの鼻筋、化粧してないのに桜色につやつや光る口唇、真っ白な頬には恥ずかしさと驚きのせいでほんのり朱が差している。聖導尼の被り布のせいで髪型はわからないが、僅かに見える前髪の色は白金と淡茶の中間くらい。
地味で禁欲的な僧服の上からでもわかる、若々しい女らしさに溢れた体型。
「美」という概念がそのまま人間の形になったような姿だった。
気づくと、イギーは数歩後ずさっていた。
気圧されるほど綺麗なものを目の当たりにするのは、生まれて初めての経験だ。
「大丈夫ですか?」
心配そうにこちらに近づいてくる。
いきなり背後から乳揉んだ相手への対応ではない。
あまりにも、優しく清らかすぎる。
尋ねる声も美しく、まるでビロードで耳の奥を優しく撫でられているよう。ただ、聞き惚れて立ち尽くす。
「もしもし? どうなされました? ひょっとしてお耳が不自由ですとか? ど、な、た、で、す、か?」
口唇の形がはっきりわかるように一音節づつ区切りながら、再度ゆっくりと尋ねる。
「あ、あっと。ごめんっ! オレ、イグナティオ・クレベーロ。一応、ここの教区に所属してる信徒だ。あんたは? いつもはシスター・コロンビーナだよな?」
初対面なので一応フルネームで名乗り、おんぼろ教会の責任者である馴染みの聖導尼の名前を挙げる。
「イグナティオさん? シスター・コロンビーナからお名前は伺っております。たいそう愉快なお方だとか」
「あ、そう」
頬が緩むけれど、実はちょっと不満もある。
どうして伝えてる評価が『愉快』なのか。素敵とかかっこいいとかセクシーとか、そういう風に紹介してくれた方がよかったのに。
「わたくし、先日こちらに配属になりました聖導尼のアレッタと申します。以後、お見知りおきを」
美しい聖導尼は、そう名乗った。
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