彼女が差した先では、飾り立てた手こぎの小舟がゆったりと航行していた。漕ぎ手とは別に白い衣装の新郎新婦が、桟橋に並ぶ人々へ手を振っている。
「ああ、新婚行列だな。港街だから、金がある奴は海でもやるんだよ」
結婚した男女が通りを練り歩き、祝福を受けるのはこの国では一般的な風習だ。婚姻成立を周囲に知らせるのに加えて、最近では富裕層が婚礼衣装などの豪華さを誇示する意味も加わっている。ヴォルニッテでは、派手な船を仕立ててさらに大げさに見せびらかすのだ。ただし、商船の邪魔にならないように。
「……綺麗ですね、花嫁衣装。わたくしもいつか……」
どきっ!
アレッタのつぶやきに、イギーの心臓が強く一拍した。
「聖職者として、あんな素敵な結婚式を司りたいものです」
「……あー、そっちね、やっぱり」
「もちろん花嫁も素敵ですよ。でも、わたくしが実際に関わるのは、そういう形ですから」
そういうアレッタの横顔がほんの少し寂しそうに見えたのは、イギーの願望ゆえの錯覚だろうか。
遠ざかる白い船を見つめるアレッタの長い髪が潮風になびき、スカートがはためく。
できるだけさりげなく、イギーは彼女の肩に腕を回した。
触れるとわかる、華奢な骨格。柔らかい肉。イギーよりもほんの少し暖かい体温。
「ありがとうございます」
「え?」
拒まれないどころか、予期せぬ言葉だった。
「強い風でわたくしがよろめかないよう、支えてくださったのでしょう? 靴も履き慣れないものですし」
「え? ま、まあね。はは……」
嬉しい気持ちが、ちょっと上滑りしてしまう。
だからと言って手は離さないけれど。
「住んでる人間の数で言やあ王都や聖都の方が多いけど、ここはひっきりなしに人の出入りがあるし、活気があって繁盛してるって点じゃ国で一番じゃねえかな」
「そうなのですか? わたくしは都会が初めてなのでよくわからないのですけど……」
「聖導尼って、修行で聖都に行ったりしないのか?」
「神はあらゆる場所にいらっしゃいますから、どこでも教えを授かり、修行する事はできます。今は、この街がわたくしの居場所です。神が授けてくださった仕事ですから」
アレッタは、略式の聖印を切る。
「そっか。じゃ、オレも神様に感謝しなきゃな。アレッタちゃんをこの街に寄越して、巡り合わせてくれた訳だし」
「ええ。神は人と人がよりよい出会いをするよう、導いてくださいます」
相変わらず会話は微妙に噛み合っていない。
「ま、アレッタちゃんがこの街を好きになってくれそうでよかったよ」
「イギーさんは、本当にヴォルニッテが好きなんですね。だって、この街の話をする時は本当に嬉しそうで」
「街だけじゃねえよ。アレッタちゃんも好きだぜ」
「わたくしも、イギーさんが好きですよ」
互いが口にした『好き』の意味はもちろん違う。
「生まれ故郷だし、ここがいちばん馴染んでるからさ」
手に力を込め、アレッタを抱き寄せる。
何かに好感を抱くのは、接する機会が多くて馴れる、馴らすのから始まる。あからさまに拒まれていないのなら、まずは触れあいの回数や時間を増やすところから。
「もちろんこの街だっていいところいい人ばかりじゃない。出入りが多くて金も動くって事はヤバい事件だって起きるからさ。もし、アレッタちゃんがそういうのに巻き込まれそうだったら、遠慮なくオレを頼ってくれよ」
「ご心配なく。神が守ってくださいますから」
「でも、いつかはこの世界が理想郷になるにしても、今はまだそうじゃねえって事だろ? だから現実に悪い人間だっている。そういうのを相手にする警吏や役人の仕事だって、必要だから存在してる、神様が認めてるって事になるし。だから、目の前のトラブルはオレが何とかするのも神様が、アレッタちゃんに導いた出会いのおかげでしょ?」
心から教義を信じている訳ではないが、必死に聖典を読んだからこの程度はすらすら言える。
「その通りですね! わたくし、まだまだ聖職者として未熟で、神のお導きについての理解が足りませんでした。世間知らずで、恥ずかしくなります」
「アレッタちゃん、入門して修行始める前はどうだったの?」
世間知らずというところから、自然に話を繋げた。そのつもりだった。
好きな相手の事はもっと知りたくて当然だし、知れば知るほど口説く糸口は増える。
「ありません」
「へ?」
「ですから、わたくしは聖導院に入門する以前の生活というのはないんです。生まれて間もなく、アールヴ町の教会の前に捨てられていたのだそうです」
どう反応してよいのかわからず、相槌の言葉さえ出てこない。
彼女の世間知らず、天然ぶり、教義しか知らないような態度には、そんな理由があったのか。
だが、アレッタ本人は辛さも悲しさもないように、さらりと語り続ける。
「アールヴ教会の聖導尼、シスター・マヘリアは、わたくしが捨てられていたのも神の導きと考えたそうです。何かの事情で我が子を育てられそうにない親が、神の慈悲とそれを現世で成し遂げる教会にすがったのだろう。ならば、この子を育むのも仕事のひとつだと。そこで、わたくしは併設の聖導院で教えを授かりながら育ちました」
いつの間にか、婚礼の船は遠ざかっていた。アレッタの瞳は、真っ直ぐに、間近から、イギーを見上げている。
「神の教えのおかげで、わたくしはこうして生きております。ですから、わたくしも教義を守り、神の恩寵を伝え、受けた恩を世の人々に返していく--それが、今生に授かった使命だと考えております」
笑顔から、強く気高い誇りを感じる。
「もし、例えばわたくしが違う風に生まれて育っていたら、先ほどの花嫁の姿に憧れたかも知れません。けれど、そうではありません。今生のわたくしは、ここにいるこのわたくしだけなのです。聖職者として生きる事、それが今の世界で神様が与えてくださった使命なのです」
アレッタの口元を笑みが--暖かい血の通った、彼女だけの笑みが彩る。
「そうですね。俗世の幸福というのは、わたくしにとって7の目なのです。ほら、そういうことわざがありますよね」
「ああ、知ってるよ」
ほろ苦い、偶然の一致。
誰でも、そう考えるのだ。イギー以外は。
「最初から、その面は刻まれていません。あり得ない事です。ただ、このように生まれ、育ったわたくし自身が為すべき最良を為していきたい。それこそが、他の誰でもないわたくしの喜びです」
拗ねる事も恨む事もなく、アレッタは自らの境遇を受け入れている。
つまり、彼女とイギーが結ばれるのはありえない--このままでは。
それでも。
「はは……っ。やっぱ素敵だよ、最高だよ、アレッタちゃん。オレ、惚れ直しちゃったぜ。いや、違うか。今初めて、本気で惚れちゃったんだ」
「はい?」
それでもまだ、自分という個人が、異性が愛されるというのは実感できないのだろう。イギーが口にしてしまった言葉に、アレッタは小首を傾げた。
「けど、今のこの世界じゃオレとアレッタちゃんは絶対に結婚できないってのは間違いない」
「そういう事になりますね」
「よし、わかった。でも、オレは結婚諦めてない。絶対にアレッタちゃんと結婚するから!」
肩を抱いた手を解き、真正面から向かい合って、彼女の両手をぎゅっと握る。いつの間にか日は傾いていて、イギーの肩越しに差すオレンジの暖かな光が、アレッタの頬を染めていた。
「あの……それは、どういうご冗談でしょうか?」
「君に聖職者を辞めろとも戒律を破れとも言わない。だから、今は冗談と思ってくれて構わない。ただ、頭の片隅に残して、忘れないでいてくれたらそれでいい」
逆光で助かった。イギーはそう思った。
きっと今の自分は、真剣すぎて青臭くて、とても惚れた相手には見せられないような表情をしているだろうから。
好きな相手にみっともないところ、弱いところを見せたくない。
それが恋だ。
多分、お互いにいちばん弱い部分を曝しあっても平気になれば、それは愛。
「よくわかりませんけど……それは承知いたしました」
「じゃ、今日は助かったぜ! ありがとう!」
解いた手を大きく振り、走り出す。
ゆっくりしている暇はない。
やるべき事は、わかった。決まった。
ジャンルーカが揶揄した通りにアレッタが、心の内側に教義しか詰まってないような存在だったら、諦めるしかなかったかも知れない。
「でも、アレッタちゃんはお洒落してはしゃいでた! 美味い料理食って喜んでた! 結婚式見てちょっとは憧れた! ちゃんと血の通った人間なんだよ! だったら、チャンスはゼロじゃねえって事だ!」
走る。
肺が全力稼働していて余裕なんてないのに、自然と言葉が口を突く。熱い血が体中を巡り、手当を受けた腕の傷がじんじんとときめく。
確かに今の世の中では聖職者の結婚は禁じられている。彼女が大切にしている信仰や信念を変えさせる訳にもいかない。
「だったら、世の中の方を変えちまえばいいだけの話じゃねえか!」
本当に教義にあるのか。聖典に明記されているのか。そうでなかったらどこかに抜け道はないか。歴史の中に前例はないか。
調べて、考えて、行動して、突破口を開いてやる。
サイコロを千年振り続けても7の目は出ない?
漫然と振ってるだけならそうだろうさ。
けど、7の目があるサイコロを作ったらどうだ?
数字を彫り足したっていい。6より面が多いサイコロを使ってもいい。いっそ数字の定義も呼び方も変えて「昨日までの6は今日から7」ってルールにしてもいいじゃないか。
「待ってろよ、アレッタちゃん! オレが、君に最高のプレゼントを贈る! ありえないはずの7の目を! 聖導尼でも恋をして、結婚だってできちゃう世界をな!」
これは、ラブストーリーだ。
どこにでもいるような、何も持たないチンピラが、叶わぬ恋を叶えるために、世界そのものを一変させてしまう。
そんなハッピーエンドを迎えるお話だ。
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