「で、惚れた女と結ばれない己がいたたまれなくなって落ち込んでる、と?」
翌日の朝、というにはいささか遅めの時刻。
下町のおんぼろ集合住宅の一室で、ぺらぺらの毛布を被ってうずくまっているイギーを見下ろしたまま、ジャンルーカ・パルマは豆茶のカップを呷った。
若者向けの流行は押さえつつ、イギーよりはまだ真っ当な人間でも通じる装い。黒に近い焦げ茶の髪は男にしては長いが、これは縛り方ひとつで印象を変えられるようにという工夫だ。ついでに体格も決して貧弱には見えない細く引き締まった長身。
他人に与える第一印象は「育ちの悪い不良少年が成長して、少しはマシな不良青年になった」のと「育ちがいいのに敢えて道を踏み外した若者」くらいの差がある。そして、それは概ねイギーとジャンルーカの実際のプロフィールと一致している。
「……いいんだ、ジャンルーカ。オレには構わないでくれ」
ただでさえ力ない声が毛布越しにくぐもっている。
「つーか、そうやって俺の目に見えるところでわかりやすく落ち込んでるのは『構って構って』って事だろうが。お前の考えなんて俺には全部バレバレなのに今さら何言ってんだ?」
「……そりゃそうだけどさぁ……」
イギーとジャンルーカは3年前から共に何でも屋を営み、この安部屋で共同生活を送っている。一応、ふたつ年上のジャンルーカの方が兄貴分で、仕事上の責任者でもある。
そのジャンルーカが別口の仕事を2、3件片付けて朝帰りすると、イギーはベッドに座って毛布を被っていたという訳である。
「らしくないぞ。たかが女ひとりじゃないか。中等学校の童貞小僧じゃあるまいし、そこまで固執するようなモンか?」
「オレ、中等学校なんて知らねーぞ」
「12、3歳レベルって事だよ。お前だってその頃には女とどうにかなりたくて悶々としてただろうが」
10歳程度までが学ぶ初等学校の多くは教会が運営しているので学費も基本無料、心付けの寄付だけだ。都市部であれば、ほとんどの子供が通える。しかし学者や富豪が開設している中等学校や私塾で学べるのは、一部の裕福な者だけだ。その上の大学ともなれば、ひと握りどころかひとつまみだけ。
「いや。割と相手には困らなかったし。悶々とした経験ってないな。自慢だけど」
イギーの見た目は悪くないというか、顔はかなりいい方だ。何より軽薄な性格で積極的にアプローチするせいで、十代前半から遊び相手の女性に困った事はないし、修羅場とも無縁。最初から本気じゃないし、相手も「重い」タイプではなくイギーの性分を心得ているので別れ話がこじれたりもしなかった。
「けどなぁ。手ぇつなぎたいとかキスしたいとか乳もみたいとか一発やりたいとかじゃなくて、惚れたのは初めてなんだよ! そう、これこそがオレの初恋っ!」
そうだ。恋だ。
初めてのこの気持ちこそが恋なのだ。
今まで性とか快楽とかは堪能してきたけれど、恋は初めてなのだ。
「だからっていきなり結婚とか言うか? しかも初対面の相手が即承諾してくれるとか、どんなおめでたい頭ですか、これは?」
ジャンルーカの人差し指が、イギーのおでこをちょいちょいと突く。
「こっちが一目惚れしちゃったんだから、向こうも一目惚れって可能性はゼロじゃねえだろうが。そしたら相思相愛でゴール一直線で何の問題もなし」
「それが都合のいい夢だっての。いきなり戒律捨てちゃう聖導尼とかいるはずがない」
「そういやアレッタちゃんは聖導尼だから処女なんだよな。じゃあ、オレも童貞の方がお似合いかも! あ、でも初めて同士だと上手くできるかどうか不安だよなぁ。そのパターンは経験ないし」
「お・ま・え・が--」
「いででででででででっ!」
一音ずつ区切りながら、ジャンルーカはイギーの鼻をつまんで引っ張り上げた。
「今さら童貞に戻れたりするか!『茹で上がった卵は生には戻らない』ってことわざがあるけどな。それで言やあお前は茹で卵を刻んでニンニクたっぷりの焼き肉に和えて、それを食い終わって出てきたクソみたいななれの果てだ。どうやったって生卵じゃない」
言い終えて手を離すと、イギーの浮いた腰がぺたんとベッドに戻る。
「いや。たとえ身体と知識は既に茹でられて料理された後でも、なんつーか、その……そう、魂だよ! 心だけは清らかな童貞に戻るって可能性をオレは信じる」
赤くなった鼻をさすりながら、くぐもった声で断言する。
「童貞のどこが清らかだ。あんな汗臭くて他のいろんな臭さも混じっててニキビだの何だの吹き出すような状態が」
「ジャンルーカ、それはそれで偏見ってモンだぞ」
「何が?」
「聖職者はセックスしねえってのなら去年まで教会にいたじじいの聖導士だって童貞って事だろ? 若くて悶々としてるだけじゃなくて、年取って枯れた童貞だっている」
「屁理屈言うだけの元気があるのか? いずれにしろ、既に童貞じゃないお前とは無関係だ。どんな屁理屈捏ねたってもう戻れないし、聖導尼との結婚だの恋愛だのは不可能」
「あ、そっか。聖職者はヤっちゃ駄目でも、ヤっちゃった後で聖職者になったって可能性はあるのか? そうするとアレッタちゃんも処女じゃないかも知れないって事で。あ、勘違いすんなよ、ジャンルーカ。処女じゃなきゃ駄目だなんて了見狭い考えじゃねえからな!」
「別にそういう勘違いはしてない。というか、お前の方に壮大な勘違いがある」
「へ?」
「性行為をした後で聖職を志すのは不可能じゃないが、聖導士や聖導尼にはなれない。授かれる位階は助導士や助導尼までだ。ま、滅多にあるケースじゃないし、お前が知らなくても仕方ないか」
教会の責任者となり、結婚や葬儀など日常的な儀式を取り仕切れるのは聖導士以上。それより下位の助導士や教働士には司祭としての資格がない。
教団は、厳格な階級社会なのだ。
「なんか面倒くせえ仕組みだな。でも、経験済みかそうでないかってどうやって区別するんだ? 男だったら完全に自己申告しかないんじゃねえの?」
いささか下品で率直な意見が、イギーの口から飛び出した。
「だから、それを信じるしかないんだろ。わざわざ後から俗世と縁切って本職になろうなんて奴が、信仰の場で嘘つかないだろうしな。助導士じゃ出世も限られるけど、そういう欲があるなら教会入りなんかしねえよ」
「王様はガルディーヤだけじゃなくあちこちの国にひとりずついるけど、教主様は世界にひとりだけってか」
さすがにその程度は、イギーにも理解できた。
教会も組織だ。内部で地位を上げ、より大きな権限を手にする生き方もない訳ではない。教会付きの聖導士から教区聖導長、更には司教や枢機卿、最高位である教主など。
しかし、その席は限られている。商売を成功させて大金持ちになるとか、国に仕えて大臣や将軍になる方がよっぽど現実的な道だ。
「ま、そのあたりを考えると、そいつは紛れもなく面倒くさい処女で、結婚も恋愛も禁止の聖職者で、お前の妄想が実現する可能性はないって事だ。酒飲んで女抱いて忘れろ。そのくらいなら奢ってやらんでもない」
苦笑しつつ、ジャンルーカはポケットから革袋を取り出して片手で弄ぶ。中に詰まったコインがじゃらじゃらと小気味よい音を奏でた。
「昨日までなら、一も二もなく喜んだだろうさ。けど、アレッタちゃんに会ってオレは生まれ変わった! 今さら完璧には戻れなくても、少しでも彼女に相応しい魂の童貞に近づきたい」
「聖導尼に相応しい男なんていねえよ。だいたい、本当にそんなに美人だったのか? お前、怪我したところ優しくされたせいで絆されただけじゃねえのか?」
「そうじゃねえよ! 手当される前、見た瞬間一目惚れしちゃったの!」
「信じられねえなぁ」
「よーし。そこまで言うなら、お前のその目で確かめてもらおうじゃねえか。教会に行こうぜ!」
為す術なくひとりで考え込んでいるとどんどん落ち込むしかない問題も、誰かと対話すれば売り言葉に買い言葉でも勢いは出る。いつの間にかイギーは、自家製の袋小路から脱出していた。
「お前が惚れた女の顔を? わざわざ拝みに? ま、いいか。どうせお前、昨日の仕事の報告に行くのは夕方の約束だったな。だったら、ここで押し問答してるよりはいくらか建設的か」
「よーし、そうとなりゃ善は急げだ。……って、マズい!」
イギーの顔が、不意に青ざめる。
「何がだ?」
「お前もアレッタちゃんに一目惚れしちゃったらどうしよう? 同居人と修羅場なんてご免だぞ。この部屋、契約してんのはジャンルーカだから、追い出されたらオレ寝るところもねえし!」
「そういう時のために、転がりこめる女でも確保しておくんだな。ま、どう転んでも俺は女に本気で入れあげたりしないから安心しろ」
「だから、アレッタちゃんは並の女とは違うんだってば!」
「はいはい」
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