「別に、お前の恋が叶うようにって考えた訳じゃない。あんな状態のまま放り出していくのは不安だったからだ。何しろ誰かさんが働かない分、泊まりがけの仕事なんかも受けなきゃならないからな」
ジャンルーカはそう言って、瓶から直接酒を呷った。前回、睡眠薬代わりにイギーに使って飲みそびれたのと同じ銘柄だ。
昔ながらの葡萄酒やエールとは違う酒精の強いタイプの酒も、ここ数年で安価に出回るようになった。
「とか言うけど、服と髭の件は助かったぜ。ありがとうよ」
部屋の隅、長寝で鈍った身体を解しながら、イギーは礼を述べる。
自分でも担いだ経験があるが、意識のない状態の人間の身体を扱うのは意外に面倒だ。特に、長身で体重もそこそこの成人男性なら。着替えさせるのも教会まで運ぶのも、簡単ではなかっただろう。
「それに、本気でオレの失恋を望んでるなら汗臭くて無精髭のままブン投げただろ?」
「不潔なのを押しつけて嫌わせるとか、そういう小細工で失敗させても無駄だと思ったからな。やるだけやって駄目じゃなきゃ、お前は諦めないだろうが」
「そりゃま、確かにそうだけど……はぁ……」
背伸び運動の途中で、イギーは短く息を吐く。
「どうかしたか? 筋でも違えたか?」
「そうじゃねえよ。そういう常識的な判断、アレッタちゃんはしねえだろうなって思ってさ。どんなみすぼらしい格好でも、悪臭漂わせても、聖職者の義務でちゃあんと面倒見るんだろうなって思ってさ」
教会での顛末は、既にジャンルーカには伝えてある。
「だから、諦めろって言ってるんだ。戒律で禁じられてるとかじゃない。あの女の中には多分、恋愛とか結婚とかいう概念がない。知識としては知ってるだろうが『自分という人間がやる事』だとは思ってないだろうさ。いや、そもそも『自分という人間』があるんだかどうだか。教義が人間の形してるだけかもな」
「……そりゃ言い過ぎだろ」
「とか言うけど、お前だって納得しかけてるんじゃないか? 戒律で無理ってだけなら、可能性はゼロじゃない。こっそり破ってしまうって手もない訳じゃない。実際、破ってる奴だっているしな」
「そうなのか?」
思わず声が弾んでしまう。
アレッタが、そんな褒められない事をするとは思っていないのだけど。
「お前は、この街の教会くらいしか縁がないから知らないだろうがな。王都あたりはひどいモンらしいぞ。高位の聖導士でも内妻や愛人囲ってるような奴もいるって話だ」
「……へえ……」
じゃあ、彼女に「実際には偉いさんでも戒律を守ってないから大丈夫」と告げればチャンスはあるのか。
いや、そんなやり方は駄目だ。
「シスター・アレッタはそんな連中と違って、教義を信じ切ってるから戒律破りなんてしないだろうけどな。つまり、お前の望みは叶わない。頭の中に恋愛だの結婚だのの概念があるかどうかさえ怪しい」
「今はまだ考えた事がないってだけかも知れないだろ? オレだって生まれた瞬間からそういう事が頭の中にあった訳じゃねえし」
「5歳や6歳じゃない。いくら聖職者って言ってももう16、7。早い奴なら嫁に行ったっておかしくない年頃だぞ?」
「……彼女は特別なんだよ。たまたまそういうのを知らないで育っただけかも」
「どうすりゃそういう環境で生きられるんだ? 俺には想像もつかん」
「オレだって想像はできねえよ。……そうだよ。知らないなら知ればいいし、知らせればいいんじゃねえか!」
体操の締めとばかりに、イギーはパンと両手を打ち鳴らした。
「彼女がどういう風に育ったのか、想像できないなら本人に訊きゃあいい。恋愛を知らないってのなら教えればいい。別に特別な事じゃねえ。誰かを口説く時には当たり前じゃねえか」
相手をよく知る。自分の事を知ってもらう。誘いたい事があるのなら興味を持つように水を向ける。それは基本だ。
「今回、普通と違う点はふたつだけだ。彼女が聖職者で、オレが本気。そうだよ、聖典の勉強だって、彼女を知るためにやってるんじゃねえか!」
再燃したやる気に押され、再び辞書とテキストに向かう。
「懲りないねぇ。ま、無理しないで適度に休めよ。さすがにもう一度同じのをやるのは気が進まん」
アルコールが回ったのか。ジャンルーカは上着と空瓶を放り投げると、そのままベッドに横になった。
「で、オレもさすがに無理だと気づいた」
数日後。真顔で、イギーはそう告げた。
「おー、そうか。やっと正気に戻ったか。じゃ、あの聖導尼の事は忘れろ。コロンビーナと同じ、ただのご近所付き合いだ」
相棒に視線も向けず、この何日かで稼いだコインを数えながらジャンルーカは答える。
「いや、そうじゃねえよ。無理だってのは、大急ぎで聖典全部訳して理解するって話。アレッタちゃんは、絶対に諦めねえ」
「はぁ……」
固い決意表明に、ジャンルーカはため息をこぼす。
「で、手順を変える事にした。全巻版は後回しだ。抜粋版はひと通り目を通して、後は副読本の方を先にチェックしてみた」
過去形で語るのは、既に作業を半ば終えたからだ。
徹夜の後で 教会で2日寝こけてから、更に10日が過ぎていた。徹夜で一気に攻略なんて無茶を止めると効率はそれなりに上がる。元々何でも屋稼業なんてやってるくらいだから要領はいいのだ。古典語とはいえ平易な文体の抜粋版なら、きちんと訳して読みこなせるくらいにはなっていた。
「で、不思議っつーか気づいた事がひとつあってな」
「何だ?」
「どこにも『聖職者は結婚できない』なんて書いてないんだよな。全巻版の方には載ってるのかね?」
ぱらぱらとページを繰る。
読んだ限りでは聖職者の心得として質素や献身などいろいろな事が記されていたが、結婚の禁止というのは見当たらなかった。
「俺だって全巻版読破した訳じゃない。ひょっとしたら俺たち信徒の目には触れない、教団の内規で決まってるのかも知れないしな」
「ただの内規だったら、神様の教えじゃねえって事か?」
「そこまで知るか。内規ってのも、ただの思いつきだ」
ジャンルーカは大げさに肩を竦めてみせる。
「その内規、詳しく知る手段ってねえのかな?」
「お前も聖職者になればいい。今からだと副導師以上にはなれないし、当然結婚もできなくなるが、愛しのアレッタちゃんと同じ境遇にはなれるぞ」
「それじゃ目的は叶わないじゃねえか!」
「だから、それはサイコロの7なんだよ。試すだけ無駄」
前と同じことわざを、ジャンルーカは引き合いに出す。
「それでも、オレは諦めない。何とか糸口を探す。手は、ちゃあんと思いついたんだからな」
もちろんイギーは折れたりせず、ただ不敵に笑った。
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