「今日は何をしましょうか?」
「電撃戦(ブリッツ)!」
アリスが手をあげて叫んだ。
「ぶりっつ?」
「早指しのことだ。一回り大きい盤が必要だな」
「どうして?」
「ショーギの駒(ピース)はつまめまセン」
「は?」
「チェスの駒は立体でつまみやすいが、将棋の駒は平坦で盤にべったりついてるだろ? 小さい盤で駒が密集していると駒を取りにくいし、他の駒にぶつかってしまうんだよ」
「なるほどね」
大盤(TVの盤面解説で使われるマグネット式の盤駒)を横にし、古将棋の駒を並べ、チェスクロックをセットした。
「一分切れ負けでいこう。一度やってみたかったんだ」
お互い合わせて120秒。
一手一秒と考えるとだいたい将棋の平均手数と同じだが、時間内に詰ませるのは無理だろう。
たぶん先に60秒を使い切った方の負けだ。
「なに食う?」
「落雁(らくがん)」
「落雁はないな。……よし、和三盆(わさんぼん)使うか!」
「わさんぼん?」
「高級な砂糖だ」
もともとは唐三盆という名前で中国から輸入されていたが、国産化されて和三盆と呼ばれるようになったらしい。
「舐めてみるか?」
「舐めないわよ、子供じゃないんだから」
「今時の子供は舌が肥えてますから、甘いものが欲しくても砂糖は舐めませんよ?」
「つまり甘さは美味さじゃないってことですね。だが和三盆は違う。これは美味い。たまにつまみたくなる」
「本当に?」
「ああ。落雁は粉を水飴なんかで練って型にハメる干菓子だが……」
レシピを取り出す。
「このレシピを見ろ、和三盆100グラムに水と水飴が小さじ一杯。ほぼ砂糖100%だ。和三盆は単体で成立する菓子なんだよ」
「文字通りの砂糖菓子ね。太りそ」
「お前が注文したんだろうが。そもそも毎日おやつ食っといてなに言ってんだ」
「それはそれ、これはこれ」
口の減らない奴だ。
ともかく金属製のボウルで材料をかき混ぜ、菊と蓮の形をした和菓子の木型(一口サイズ)にはめ込み、こんこんとまな板の上に出した
白一色とはいえ綺麗に成形されている。
「ダージリンとエスプレッソ、どっちがいい?」
「エスプレッソ」
「先生もエスプレッソでお願いします」
「ダージリンをプリーズ!」
「あいよ」
ダージリンは秋摘みのオータムナル。
和菓子との相性がいいので重宝する。
エスプレッソは30秒という短時間で抽出した、カフェインの少ないイタリアンコーヒーだ。
イタリアは南部に行くほどエスプレッソの量が減って味が濃くなる。
その最たるものがナポリのコーヒーだろう。
カップにコールタールのような真っ黒でドロドロの液体を、ドッピオ(二杯分の量、いわゆるダブル)で注ぐ。
「にがっ! でも美味しい!」
和三盆の落雁とエスプレッソ、甘味と苦味の究極だろう。
ただ和三盆を大量に使うわけにはいかないので落雁はボリューム控え目。
ドッピオのエスプレッソにこの量では心もとない。
そこで大量の砂糖をエスプレッソにぶちこむ。
「そんなに入れるんですか? 砂糖が溶けてないと思うんですが……」
「イタリアではこれが普通です」
香りよし疲労回復によしの極上の一杯だ。
ごくりと一気に飲み干すと、カップの底にエスプレッソの色に染まった砂糖が残留していた。
「ほら、砂糖残ってるじゃない」
「これがいいんだよ」
「え」
「エスプレッソが染み込んでてめっちゃ美味いんだぞ。ナポリタンはこれをつまむためにエスプレッソを飲むぐらいだからな」
「……一口ちょうだい?」
「一口だけだぞ」
「先生も一口お願いします」
「どうぞ」
「アリスにもプリーズ!」
「ええい、持ってけ泥棒!」
一口といっても溶け残った砂糖だ。
そんなに量があるわけじゃない。
食後の楽しみが減ってしまったが、今回ばかりは仕方あるまい。
「んー、苦甘い! コーヒー味の落雁って感じ?」
「まあ、実際にコーヒー味の落雁を作ってもこんな味にはならんだろうがな」
苦いエスプレッソを飲み干してこその味だろう。
「では手番を決めましょう」
「はい」
『振り駒』をする。
歩を五枚取って盤に落とし、表が多ければ先手、裏が多ければ後手だ。
駒を落す。
歩が3枚。
「俺が先手ですね」
チェスクロックを押して対局開始。
とにかく手を止めないことが重要だろう。
序盤は定跡通りに進み、時間差は開かなかった。
だが本番はここから。
盤の中央で駒がぶつかり、攻め合いが始まる。
誰が言ったか『将棋は逆転のゲーム』。
悪手の多い方が負けるのではなく、最後に悪手を指した方が負ける。
早指しなら尚更だ。
だから中盤まではミスを恐れずに指す。
俺は積極的に攻勢を仕掛け、先生の駒を取り、敵陣に攻め込んだ。
いい感じだ。
これなら時間内に詰められる可能性も……と時間を確認する。
「え」
我が目を疑った。
先生より4秒多く消費してる。
なんでこんなに差が……と思いながら、ターンとチェスクロックを押した。
「ん?」
そうだ、チェスクロックだ。
公式戦では、チェスクロックの位置は後手が決める。
今回は先生が後手だから、先生の利き腕である右手側、つまり俺の左側に置かれていた。
俺は右利きだからかなり押しにくい。
プロの対局だとチェスクロックは記録係が管理してくれるものの、アマチュアは自分で押さなければいけない。
公式戦では『駒を指した手と同じ手でボタンを押さないと反則負け』になる。
そうしないと左手をチェスクロックに置き、右手で指す奴が現れるからなんだろうが。
夢中になると、このルールを忘れて失格になる奴が毎回のように出てくる。
改めて考えると、早指しで後手がチェスクロックの位置を決めるのはおかしい。
先手の方が常に後手よりも一手多いわけだから、通常の対局とは逆に先手がチェスクロックの位置を指名するべきなのだ。
だがもそんなことを指摘している時間はない。
持ち時間で負けているのなら、時間内に詰ますまで。
獅子で一度に二枚の駒を取り、飛将を走らせて更に一手で二枚の駒を取る。
勝ち筋だ。
なのに先生が捨て駒をしかけてきた。
捨て駒の意図を計っている余裕はなく、反射的にそれを取って駒台に置き、次の一手でその駒を盤上に打つ。
それを繰り返す。
不自然に。
「あ!?」
しまった、罠だ。
早指しで無駄に駒を取ってはいけない。
なぜなら取った駒を駒台に置くために手が盤の外へ移動して、無駄な時間を使ってしまうからだ。
将棋盤と駒台の位置の例
駒台は盤の右側に置くのが普通。
持ち駒を打つ場合も手が外に出るから、無駄に時間を使ってしまうわけだ。
「うふふ」
そしてまた捨て駒を仕掛けてくる。
取ってなるものかと無視していたら、先生は歩を前に進めて『と金』にした。
「う」
取ればタイムロス。
取らなければ自陣をかき乱される。
軽いパニックになる。
ブー
そうこうしている内に時間切れ。
「……参りました」
早指しは意外に奥が深い。後半のミスに気を付けて、ただ早く指せばいいんだと思っていた。
まさかこんな戦い方になるとは。
「早く指すだけなら自信あったんだがな……」
「あんた手早いもんね」
違う意味にしか聞こえない。
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